島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その1:生活圏編

「不器量な乗り物たち」その2:極地編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その3:深海編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その4:日本編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その5:鉄道・路面電車編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その6:戦前・戦中編はこちらへ


1-1:ハンガリーの「世界でも、もっとも貧しい」自動車

1980年、ハンガリーのブダペストで。なんとしても自動車になりたかったオートバイ。

キャンバス地(麻布)でボンネットやリアフェンダーを作っている。中には金属の骨が入っているのだろう。まるで傘のような仕掛けだ。

屋根とドアも、もちろん布製である。


見られるように、後輪は1輪だけの3輪車である。二人乗り。床はないし、中はうるさかったし、中は結構寒かったに違いないが、オートバイに比べれば、雨風があたらない天国だったのだろう。

後部タイヤに付いている泥よけは、後ろの車へのエチケットである。

撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko 50mm f1.8。フィルムはコダクロームKR)


2-1:ルーマニアの「貧しい」自動車

やはり不細工な幌(ほろ)を被った、ほとんど手作りの自動車。上のと同じく、後輪は1輪だけの3輪車だ。二人乗り。

しかし、ラジエーターグリルの中に、フォグランプ2個を付けている。持ち主にとっては宝の車にちがいないから、精一杯のおしゃれなのであろう。

窓枠が錆びているのは、品質の悪い材料のせいに違いない。後方を見るフェンダーミラーが片方なのはご愛敬だ。

1985年、ルーマニア中部の町ケイア付近で。

この時代のルーマニアで車を持つというのはたいへんな贅沢だった。右の隣はルノー12をルーマニアで国産化したダチア。そのほか、シトロエンの安い小型車も国産化していたが、いずれも普通の人たちには、到底、手が届かない高価な車だった。しかし、車を持ちたい、それらとは段違いの貧しい車を手に入れたのがこの赤い車なのだろう。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


3-1:旧ソ連の「貧しい」国民車・ザポロージェッツ

見たところ、貧しい車である。しかし、当時のソ連の国民にしてみれば、自家用車を持てるのは、ごく一握りの人たちだけだった。それも、「階級」によって買える車が決まっていて、一番下が、このザポロージェッツという、かろうじて4人が乗れる小型車だった。1967年頃に作られていた。

エンジンは空冷4気筒で750cc、27馬力だった。エンジンが車体の後部に置かれる、リアエンジン、リアドライブ(RR)の車で、このRR方式は、当時としては全長のわりに車室を広くとれる特徴を持っていた。

この車は、明らかに、戦後のドイツで貧しい車として作られたゴッゴモビール(ゴッゴモビル)の模倣である。最小限の機能を備え、実用品としての無骨なデザインの実用車だったゴッゴモビールは、この車のほか、日本でも三菱500という模倣を生み出した。(なお、ゴッゴモビールも、後年には、外形だけは可愛らしいバリエーションをいくつか出した)。

ごく小さな車だったから、たくさんの荷物を載せるときに備えて、車体に不似合いな巨大なルーフラックを取り付けている。乗用車というよりは、貨物も運ぶ、万能車として使われていたに違いない。

ワイパーは左右が連動している「モダン」なタイプだが、スイッチを切ったときに、下端で止まらないのはご愛敬だ。当時のソ連の工業レベルは、この程度だったのである。

なお、これより大きな車は、中型の「モスクビッチ」や、セドリックやクラウンクラスの「ボルガ」があったが、このボルガは個人で買える車ではなく、官庁の送迎用などだった。

また、クレムリンの高官だけが乗ることが出来る高級車「ジル」という、1950年代の古い米国車のデザインをそのまま模倣した、これもデザイン不在の大型車もあった。

なお、中国にも、政府高官だけが乗ることが出来る、「ジル」と同様、大衆に威厳と威圧感を振りまくための車「紅旗」があった。

この車に、クマのように大きなロシア人が4人乗った姿を想像してほしい。窓いっぱいに顔が拡がって、まるで滑稽な姿になるのである。

この写真は1970年、ソ連極東の港湾都市、ナホトカで撮った。町中でも舗装していない道が多かった。

撮影機材はOlympus Pen FV ハーフサイズ、レンズは Zuiko 70mm f2.0。フィルムはコダクロームKR)


3-2:これも「乗っている人の顔が大きく見える「乗り物」、英国シェットランド諸島の超小型漁船

窓いっぱいに顔が拡がって、まるで滑稽な姿になるといえば、このあまりにも小型の漁船も同じだ。

屋根に乗っている浮き輪と船体の大きさを比べてみてほしい。何とも小さいこの船に、大男でしかも肥満体が多いシェットランド諸島の男が乗っている姿を想像できるだろうか。顔は窓いっぱいになり、男は、船の床に膝をついているにちがいない。

シェットランド諸島は英国の東北に浮いている島だ。「汽車の駅では、ノルウェーの西海岸にあるベルゲンがいちばん近い」と地元で言われている離れ島で、歴史的にもノルウェーとの関係が深く、決して豊かではない。

船が小さいのも、そのせいだろう。この船で外洋の荒れた海へ乗り出すのは容易ではあるまい。この近くの海は船の墓場と言われている。

海を隔てた「隣国」ノルウェーでは、成人の男の死亡原因の第1位は小型船舶からの転落事故だという。シェットランド諸島でもおなじようなものだろう。

英国人がはじめて南極の組織的な探検をしたときに、南シェットランド諸島を発見して「シェットランド諸島」と名付けたのは、このシェットランド諸島が寂しい北の海に浮いている孤島だったからだ。海岸がところによって非常に険しいこともよく似ている。

このシェットランド諸島で最大の町は港町のラーウィック。写真はその漁港で1995年夏に撮った。アイスランドと同じく、ツノメドリが多い島だ。また同じくアイスランドと同じく、大西洋を南北に大旅行をくり返す、渡り鳥の天国でもある。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ASA64)


4-1:英国ロンドンの「庶民のための三輪車」

ハンガリーだけではなくて、英国も決して豊かではなかった。「自動車の形をした」三輪車が戦後、長らく庶民の足だった。1980年に撮影。こちらはハンガリーのものとは違って、前が1輪である。家の宝だったのであろう。綺麗に磨き上げられている。

車内も床があり、ボディーもドアも金属だから、1-1のハンガリーの車よりはずっと快適だったに違いない。 もちろん、ハンドルは丸い、自動車のようなものがついている。ワイパーは2本もある。

しかし、もちろん、四輪車よりは、はるかに不安定で、急カーブを切ることも、ハンドルを切ったままブレーキを踏むこともできない。転倒する恐れがあるからである。その意味では、有名な東独の国民車「トラバント」(下の11-1の写真)よりもずっと危ない車だった。

もっとも、貧しい時代には、そんなことは言っていられなかったに違いない。もっと貧しかった日本では、乗用車ではなく、貨物車だけがようやく売れていた時代であった。

撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko 50mm f1.8。フィルムはコダクロームKR)


4-2:英国ロンドンの「庶民のための三輪車」その2

英国の三輪車は、いくつかの小メーカーで作られていた。これは1995年3月にロンドンで見た三輪車。上のメーカーとはデザインが違う。バンパーまで一体化したFRP製のボディーである。

後部にはエンジンがあるから、トランクは作れない。前部には操向輪があるから、大きなトランクは取れないが、ごく小型で浅いトランクを付けたのがこのメーカーの特徴だったのだろう。

しかし、ワイパーは1本だけ。買いやすいよう、徹底的に安く作られているのである。

この種の自動車型の三輪車は1990年代まで見られたが、さすがに最近はほとんどいなくなった。英国もそれなりに豊かになったのであろう。

しかし、近年、日本の航空会社がスチュアデスを英国から採用したら人件費が1/3になったというから、国民の平均的な収入は、英国といえども、それほど高いわけではない。

この車は所有者にとっては宝なのであろう。とても綺麗に磨き上げられている。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


5-1:敗戦国ドイツの「庶民のための車」その1

第二次大戦を仕掛け、敗戦に至って灰燼に帰してしまったドイツでも、戦後10年ほどたつと、ようやく庶民のための車が作られて売られるようになった。

この2台の車は、いずれも2人乗り。前にある赤い車がメッサーシュミット、後ろの橙色の車がハインケルである。名前を聞いて思い出す人もいるだろうが、ともに、世界的に有名なドイツの飛行機メーカーが戦後に作った車だ。その意味では、中島飛行機の残党が作ったスバルと似ている。

メッサーシュミットは前後に(オートバイのように)座る。つまり飛行機と同じだ。これは3輪車ではなくて、4輪だが、後輪の間隔はごく狭い。形といい、座りかたといい、まるで軽飛行機に乗っているような気分だっただろう。エンジンは191ccの単気筒、わずか9.7馬力だった。 この車は1957年製。雨の日や冬は、上に幌をかぶる。

ハインケルは、乗り降りするドアが車の前面全部になっている。つまり、ドアを開けるとハンドルが軸ごと外に出てきて、二人が並んで腰掛けるようになっている。エンジンは172ccの単気筒、これも、わずか9.2馬力だった。 この車は1956年製。衝突安全性などは、考えている余裕はまったくなかった時代である。

右はメッサーシュミットの運転席。ハンドルは丸くはなく、まるで飛行機の操縦席のようだ。メーターは一つしかなく、スイッチも数個しかない。中央はワイパーのモーターと、モーターと一体になったスイッチ。

簡素なものである。しかし、日本の名車スバル360の初代も、メーターは一つだし、燃料計もなかった。スバルの燃料タンクは16リットルと2リットルに分かれていて、16リットルを使い切ってエンジンが止まったら、エンジンルームを開けて、燃料コックを切り替えて、残りの2リットルで走る仕組みになっていた。
つまり、戦後のドイツの自動車工業は、このような貧しい車から立ち上がったのである。

いまでこそ大きな顔をしているBMWも、とても貧相な車を作っていた時代だった。たとえばBMWの大衆車イセッタ(左下の写真の緑の車)は、このハインケルとよく似た車だった。イセッタは1957年に売り出され、1962年まで売られていた。

つまり、ハインケルを引き継いだ形になっている。イセッタのエンジン単気筒だったが、容積は247ccと295ccの二種あり、それぞれ12馬力と13馬力を発揮した。

左上と右の写真は1989年8月と1991年3月に、ドイツ・ハンブルグにあった民間の自動車博物館で撮った。個人の収蔵品である。その後、残念なことに、その後、この博物館は閉鎖になってしまった。

左下の写真は1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。

このように、前の扉を開けて乗り降りする。ほんの申し訳程度のバンパーがついているが、衝突安全性などは、考えている余裕がなかった時代だった。

なお。この車はドイツ製だが、英国向けの「右ハンドル」仕様になっている。上のハインケルと違って、左開きのドアになっている。

右下はハインケルの後ろ姿。上のBMWイセッタと前部は似ているが、後部は、ずっとかわいらしい。後部のランプやバンパーも、遊園地の乗り物のようだ。大人がしらふで乗るのは難しいほどの車である。

じつは、ほとんど同時期に、日本でも同じように質素な車が作られていた。設計したのは富谷龍一氏。しかし、日本人は、まだ、質素な車とはいえ、買う余裕はなかった。

後部の出っ張りには、単気筒のエンジンやトランスミッションや後輪が入っている。つまり、スクーターの後ろ半分が収容されているようなものだ。 エンジンフードは、バンパーの前に着いている留め金を外して、上ヒンジで開ける。その上に付いているのはガソリンの注入口だが、もしガソリンが溢れたら、エンジンにかかってしまうという危険な位置にある。給油は慎重にやらねばなるまい。

しかし、考えようによっては、これは設計者の本能だったかも知れない。つまり、上のメッサーシュミットにしろ、このハインケルにしろ、戦時中までは、ドイツの花形の航空機を作っていたメーカーだった。

敗戦で尾羽打ち枯らしたとはいえ、飛行機メーカーの技術者としては、思わず、空気抵抗のことを考えてしまったのかも知れない。まっすぐ、すとんと落とした後部では、乱流が渦を巻いて、空気抵抗を増やす。このかわいらしい形は、あるいは飛行機設計者の血がそうさせたものかも知れないのである。

ボディー右側面に、まるで怪我をしたときの絆創膏のように付いているのは、エンジンの冷却空気の取り入れ口である。

この車に乗る人たちは、だれでも、この車の形ゆえに、 外から、ずいぶん、じろじろ眺められたに違いない。

日射しが強いと温室のような造りだし、窓ははめ殺しだから、中はとても暑かったに違いない。 このため、屋根がキャンバスになっていて、開けられるようになっている。

私が見るところ、ドイツ人はヨーロッパ北部に位置する地理的な位置のために、太陽に飢えているようで、車の屋根が開く仕掛け、サンルーフやカブリオレが、ことさら、好きなようだ。夏に町中の公園で、若い女性が真っ裸になって日光浴しているのも、ドイツが一番多い。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。ハンブルグでの写真のフィルムはコニカカラーGX200 ネガフィルム。メッサーシュミットの運転席の写真だけは撮影機材はOlympus OM2、コダクロームKL200。左上のニュージーランドでの写真はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)


5-2:敗戦国ドイツの「庶民のための車」その2

これは、上の二つの車とは別のドイツの超小型三輪車、フルダモビール。1951年から1956年頃まで売られていた。つまりBMWイセッタよりも古く、ハインケルとほぼ同時代になる。

ドアこそ、ハインケルと違って「正常な位置」である横に付いているが、後ろが1輪しかない3輪車で、これも、なんとも滑稽で愛嬌のある形をしている。この写真ではよく見えないが、屋根の後半から後部にかけて丸く後ろ下がりになっている、特有の形をしている。

前のバンパーに1個だけぶら下がっているのはホーンである。ワイパーのアームも1本だけだ。つまり、必要最小限のものしか付けられなかった時代だった。

フルダにはいろいろなモデルがあるが、いずれも単気筒のエンジンだった。エンジンの容積は191ccから369ccまであったが、jこの写真のモデルは1956年製の191cc、10馬力のモデルである。

このフルダも、上のハインケルに決して負けない、滑稽な後ろ姿をしている。まるで風船玉だ。

いくら後ろが一輪とはいえ、そして、その後輪の上にエンジンが載っているとはいえ、これほどの”可愛らしい”デザインを作った理由はなんだったのだろう。自由自在に曲げられるアクリル板の登場にデザイナーは歓喜したのであろうか。

リアランプは、ごく小型の三角のものひとつだ。自転車とぶつかっても負けるに違いないバンパーの両端についているのは、ランプではなく、自転車なみの反射板である。

貧しい時代だったとはいえ、質素この上もない装備である。

方向指示ランプは、ドアの上についている。

上に書いたように、このハンブルグの博物館は閉鎖になってしまったが、ドイツにはフルダだけの博物館がある。

(1989年8月に、ドイツ・ハンブルグにあった民間の自動車博物館で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


5-3:敗戦国ドイツの「庶民のための車」その3

これも別のドイツの超小型自動車。クラインシュニットガー(KLEINSCHNITTGER)。1950-1957年に売られていたが、この車は1954年製である。

5-1に書いたように、ドイツ人は、ことさら、屋根の開く車を好む。それゆえ、どんなに安っぽくても、また、どんなに小さくても、オープン型のスポーツカーはあこがれの車である。

まだ貧しかったドイツ庶民の期待に応えるための車が、このクラインシュニットガーだった。エンジンは単気筒。わずか123ccの容積だったから、原付自転車の2台分ほどの小さなエンジンで、5.5馬力しか出せない。

しかし、スピードは問題ではなかった。敗戦から10年。まだ焼け跡の残るドイツの町を、この遊園地の自動車のような、ドアもない超小型の車は、それなりに颯爽と走り回っていたに違いない。

エンジンを納めた前部ボンネットがほんの少ししか開かないのはご愛敬だ。これは、たった1気筒のエンジンを納めるのには、ここだけで十分だったことを示している。

雨が降ったときには、じつに不格好なキャンバストップをかけることになっていた。(これはチェコの愛好家のホームページに掲載されている)

(1991年3月に、ドイツ・ハンブルグにあった民間の自動車博物館で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコニカカラーD200 ネガフィルム)


5-4:敗戦国ドイツの「庶民のための車」その3・ロイト600アレクサンダー

そのドイツも、1950年代には日本と同じように経済成長を遂げ、戦争の傷跡も消えかけていた。ファミリーカーは、当時の人々にとって、あこがれの象徴だった。しかし、当時のほとんどの人々の収入からいえば、高嶺の花であった。

当時の世界でもっとも進んでいた無料の高速道路、アウトバーンはヒットラーによって作られてドイツ内を四通八達していた。速度は無制限である。(もっとも、昨今は速度制限を設けている区間もあり、また、有料化論議も盛んだ)。

車があれば、家族を乗せてどこにでも行ける。このあこがれは、いまでも多くのドイツ人の心に深く染みついた感情だ。いまでもドイツ人たちは、ラジオさえつけないで何百キロも走り続けるのは、この深層心理と無縁ではない。

これは1959年製のロイトLlyod 600。600ccの小型二気筒エンジンを積んだファミリーカーである。ロイトは第二次大戦で壊滅的な被害を被った北西ドイツの大都市、ブレーメンに1949年に誕生した自動車メーカーである。

はじめは、たった300ccのエンジンを持つロイト300を作っていたが、1955年からはロイト600、そして、外装を豪華にしたこのロイト600アレクサンダーを1958年に売り出した。日本では日産自動車がブルーバードの前の型であるダットサン110型を作っていたころだ。

エンジンの出力はわずか25馬力。最高時速は110km/hだった。前部のボンネットの中には、空冷の二気筒エンジンと、そのすぐ上にガソリンタンクが鎮座している。今から見れば、考えられない危険な構造である。

ガソリンを入れるためにはボンネットを開けなければならない。もし、ガソリンがこぼれてエンジンの上にかかったら惨事になる。衝突のときも同じだ。

この車は、1950年代後期の大型の米国乗用車の形をそのまま真似ている。クロームメッキされた大型のラジエターグリル、尻尾が跳ね上がったようなテールランプ、フロントウィンドウの上の庇。長さ5メートルを超え、5000から7000ccものエンジンを持つ大型の乗用車ののびやかな形を縮小して真似たその姿は、痛々しいともいうべきものだ。

小型車には小型車のデザインがある。しかし、大型乗用車にあこがれて、ちまちまとした物真似になってしまった、この姿は哀しい。 しかし、この痛々しさはドイツに限ったことではなかった。たとえば、トヨタの二代目パブリカは、初代の愛嬌のある姿から豹変して、大型車のみっともない縮小コピーになってしまった。

(2004年10月に、ドイツ・ブレーマーハーフェンの歴史博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは41mm相当、F2.8, 1/25s)


5-5:「戦勝国」フランスの「農民のための車」

第二次大戦の「戦勝国」であったはずのフランスも、ドイツに攻め込まれ、国とも国民も大変な被害を受けた。戦後、貧しかったフランス人にも持てる車というので、戦前から設計が進められていたこのシトロエン2CVは戦後の1949年に売り出され、その後、大量に作られることになった。

この設計はフラミニオ・ベルトーニの手になる。いままでのどの車にも似ていない、しかし、独創性に溢れた車を作り上げたのは、たいへんな天才というべきであろう。

なお、ベルトーニは、1934年から1960年代までシトロエンのデザインに携わり、トラクシォン・アバンからこの2CV、革命的な車であったDS19、一見、ぎょっとするほど醜いので賛否両論が渦巻いたが私は高く評価しているAmi(AMI6とAMI8があった)まで、独創的なシトロエンをいくつも作り上げた。

しかし、この優れた設計者の名前が社外に知られるようになったのは、彼の死後、かなり経ってからであった。当時、シトロエンの経営を握っていたタイヤ会社のミシュランが、どの社員も、会社の「もの言わぬ歯車」になることを強制したからであった。

左の写真は第二次世界大戦が始まった年である 1939年に作られていたこの2CVのオリジナル。ドイツ軍の手に渡らないように、当時作られていた250台ほどが破壊され、世界には、この車1台だけしか残っていないと言われていた。しかし、その後、1968年にフランスで2台目が、また、その後、最後は1994年に、フランスで3台見つかるなど、合計5台が現存していると言われる。

エンジンは水平対向2気筒、前輪駆動である。ドアの窓ガラスは、写真のように上半分が下に折れるという開き方しかしない。これらはのちの2CVの量産時にもそのまま引き継がれた。(なお、量産時には、ドアのガラスは上半分が上に折れるようになった)。

この試作車の段階では、少しでも安く作るために、ヘッドライトは運転席側にひとつしかない。じつは日本にもヘッドライトが一つの車が作られた時代があった。

前部に突き出ているのは手動でエンジンをかけるためのクランクである。 試作車にはセルモーターはなかった。なお、量産車になって、セルモーターが普通に着いてからも、こういったクランクは、この車に限らず、1950年代まで、広く使われた。

かつて私が乗っていた1962年型の日産ブルーバードP312型や1966年型日野コンテッサ1300にも、セルモーターではエンジンがかからないときのために、このクランク棒を入れるための穴が常備されていた。 エンジンがかかったとたんに、うまくクランクを外さないと、クランクで二の腕の骨を折ることがある。日本でも外科医の間では、運転手特有のこの骨折の患者が多くて、有名になっていた。

この車は、篭に入れたタマゴが割れない、というサスペンションを持っていた。つまりストロークが長くて柔らかい、しかし簡素なサスペンションを使っていた。農業国フランスの農民のための質素な車だったが、戦後1949年に2CVとして量産されて売り出されたときには、貧弱だ、みっともないといった酷評も受けたが、最終的には都会人も含めて、大いなる歓迎を受けた。

なお、この写真の試作品では水平対向エンジンは水冷だったが、量産時には空冷に代わった。当初は375ccのエンジンから9馬力を生んでいた。

後年、1954年からは425cc、1963年には同じ容積ながら18馬力になったが、それでも非力である。しかし、それほど小さくはないボディーに非力なエンジンを積んで、アクセルペダルを「フランス人の残酷さ」をもって床まで踏みつけて走るのが、この種の小型のフランス車の走り方なのである。しかし、一日中、アクセルペダルを床まで踏みつけていても、決して壊れない、という優れたエンジンでもあった。

また、この試作車はボディーもシャーシーもアルミだったが、量産時には鉄製になった。ヘッドライトはもちろん二つになったし、前後のフェンダーの形も変えられた。しかし、このオリジナルの方が、簡素で、それでいて美しい。

量産型になってからも、極めて質素であった。たとえば、ワイパーを回転させるのは電気モーターではなく、スピードメーターを指示させるために変速機から回転を取り出しているケーブルの回転を使っていたほどだ。このため、速度計は、前の窓の左下、すぐ内側という特異な場所にあった。

天井は最後まで、キャンバスの布だった。この布は、前の方から巻き込んでいって、丸めた絨毯のように、後端に縛っておくことができた。つまり、完全なサンルーフになる。これは、たとえば、晴れた海岸の道路などを走っているときには、とても気持ちのいいものだ。

戦後、何回もの「改良」を重ねて、1990年のはじめまで半世紀にもわたって作られたこの2CVだが、排気ガス規制や衝突安全性をクリアできず、たとえば1989年までにはオートストリア、スペイン、オランダ、スカンジナビア諸国、イタリアでは安全基準を達成できずに、新車としては買えなくなってしまっていた。

こうして1988年2月にフランスの工場で生産が終わり、そして最後に残ったポルトガルの工場でも1990年7月に生産された2CVを最後に消滅したのは残念なことである。累計で700万台という、当時としては大変な台数が作られた。

しかし、戦後の「改良」とはいっても、後年のものは、初心を忘れた、見栄えだけの「改悪」に近いものが多かった。

しかし、最後まで失わなかったのは、素朴さだった。たとえば、車内からドアを開けるための機構は、最小限の「原理だけの」メカニズムを持った仕掛けだ。知らない人は、ドアを中から開けることは難しい。レバーやクランクを使った、今の仕掛けは、ある意味では無駄なものなのである。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。ドイツ人は世界で最初に自動車を作ったのはドイツ人だと思っているのと同様に、フランス人はフランス人のほうが先だと信じているのである。この自動車展には、フランス中の博物館や個人から展示車が集められた。撮影機材はOlympus OM1、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


5-6:フランスにも「貧しいだけの車」がありました、ロビン、1946年型

ドイツが貧しい車を作っていたとき、隣のフランスで生まれたのは、上のシトロエン 2CV のようなすぐれた車だけではなかった。

これは終戦の翌年の1946年から1949年まで作られていたデ・ロビン de Rovin Type C。オモチャでも、子供の乗り物でもない。れっきとした、大人二人のための、しかし、なんとも貧しい乗り物であった。

上の5-3の、ドイツのクラインシュニットガーに似て、ドアもない、オープンの二座だ。これがいちばん安くできる形の車だからである。

しかし、このあまりにもかわいらしい車に、いい大人が、しらふで乗るのには、なかなかの勇気を要したに違いない。

エンジンは二気筒、シリンダー径70mm、ストローク60mmで467ccだった。それでも90km/hを出した、と記録にある。もし、本当に90km/hで走ったとしたら、風の巻き込みはすさまじかったに違いない。

この車は個人蔵のものだ。 配色は、さすがフランスの車。もっとも6-6の嫌味な車に似ていなくもないが。

撮影したのは1984年7月、フランス・パリのグラン・パレ展示場で開かれた「自動車の生誕100年展」で。

撮影機材はOlympus OM1、レンズは Tamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはサクラカラー R200 ネガフィルム)


6-1:フランスのエスプリと一徹さ、「パナール」

ドイツが貧しい車を作っていたとき、隣のフランスはどうだったのだろう。

第二次大戦で最終的には勝ったとはいえ、フランスも全土が疲弊していた。しかし、庶民の車である名車シトロエン2CVなど、安いが世界的な傑作の車を作る一方で、このパナールのような、フランスでしかできない車も、すでに1948年に作っていた。

他のどの自動車にも似ていない車を作る、ヘッドライトは2つなければ、という既成概念を吹き飛ばせ、というところから設計した、フランスでなければ生まれない、ユニークな車だ。

シトロエン2CVや上のロビンとはちがって、なかなかの高級車である。バンパーの材質は、当時としてはごく珍しいアルミである。

一つ目のヘッドライトはフランスらしく、黄色の光を発する。(しかし、近年、フランスの車も普通の白色光になってしまった。独自性を失ったのは残念なことだ)。

撮影したのは1984年7月、フランス・パリのグラン・パレ展示場で開かれた「自動車の生誕100年展」で。

撮影機材はOlympus OM1、レンズは Tamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはサクラカラー R200 ネガフィルム)


6-2:これもフランスのエスプリと一徹さ、別の「パナール」

パナールは、二つ目の車を作らせても、ユニークだった。この車も、ほかのどの車とも似ていなかった。なかでも、ラジエターの開口部であるおちょぼ口の「口元」は、絶対にほかにはないデザインだった。

ボンネットも、中央部だけが開くのではなくて、左右のフェンダーも、ヘッドライトも、すべてが一挙に開く仕掛けだ。整備には楽だろうが、持ち上げるのには、とても重かったに違いない。

また、方向指示器(ターンシグナルランプ)も、フロントウィンドウのすぐ前についている。これでは、小路から出てくるときに、左右からは見えにくいに違いない。

このように、意地でも人に似ない、というのは見上げた心がけというべきであろう。いや、じつはフランス人には限らない。カメラでいえば、ドイツのフォクトレンダーも、一時は、決してほかのカメラには似ていない、ときには使いにくくてもかまわない、という反骨のカメラを作り続けた。

他社が売れるものを出したら、雪崩を打って後追いをする日本の自動車やカメラなどのメーカーとは大違いである。ヨーロッパの依怙地さ、一徹さ、ときにはヨーロッパの良心というべきものである。

これは上の車の8年後の1954年から作られた Panhard & Levisson。

撮影したのは1984年7月、フランス・パリのグラン・パレ展示場で開かれた「自動車の生誕100年展」で。

撮影機材はOlympus OM1、レンズは Tamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはサクラカラー R200 ネガフィルム)


6-3:フランスの嫌みと紙一重の美の極致、「アンドレ・デュボネ」

この華麗な車が1945年、ドイツが降伏して、欧州では第二次大戦が終わった年に作られたとは、とうてい思えない。フランスの底力なのだろう。日本は、自動車はおろか、自転車さえ、ろくなものが出来なかったころである。

Andre Dubonnet。6気筒エンジンを積み、220km/hを出した。

それにしても、なんという優雅な形なのだろう。伸びやかで、美しい。しかし、あまりに前方が長く、まるで巨大タンカーの船橋(ブリッジ)から前を見て操縦するようなありさまだったに違いない。

目(ヘッドライト)が中に寄っているのは、フロントフェンダーの曲線の邪魔をしたくなかったのだろう。少し前のプジョー402と同じアイデアなのであろう。

しかし、マーカーライトもないこの車では、夜間、前から見たら、車の幅を読み損なって危険だ。ヘッドライトの幅の3倍もの車幅を持っているとは、誰も気がつくまい。

ドアの開きかたも、ほかのどの車ともちがう。天井の一部ともども、ボディーと平行に開く。これほどの高級車の所有者が乗るときに、背中をかがめて、身体を滑り込ませるような卑屈なことがないよう、特別なメカニズムを擁しているのである。

しかし、この「あまりに美しい」車も、もし、日本でのかつてのカローラや、いまのBMWほどたくさん走り回っていたとしたら、それは嫌みだろう。数もごく限られた高級車だけがまとえる、嫌みと紙一重のちがいの装いなのである。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


6-4:孤独に耐える男だけが乗れるフランスの車、「1953年ゴルディニ」

滑稽な形をした車だ。しかし、作る方も、乗る方も、本気だったのである。

これは1953年製のゴルディニ、24S。速度記録の挑戦車だ。エンジンは当時としては大きい2982cc。4気筒それぞれにキャブレター(気化器)を持っていた高性能仕様だった。

4気筒エンジンで二つのキャブレターを持つ車は、スポーツカーとして売られていたが、4つのものはめったになかった。

1960年代に売り出されたホンダ360という軽自動車のスポーツカーだけは、市販車で4つのキャブレターを持っていたが、これはホンダお家芸の、技術的には未熟なものを、目を引く仕様だけでモルモット代わりの消費者に売りつける商策であった。

その少し前に鳴り物入りでホンダが出したスポーツセダン「77と「99」も、利点ばかりしか宣伝されなかった売り物の新型の高性能空冷エンジンも、どこか欠陥があったのであろう、たちまち姿を消してしまった。

ところで、極限まで空気抵抗を減らそうと、助手席までなくして平らにしてしまったこの車に乗るドライバーは、なんだか滑稽に見えるこの石鹸箱のような不器量な車を転がしながら、何時間もの孤独に耐えなければならなかったに違いない。

「フランス人の残酷さ}という言い方がある。非力なエンジンの車で、アクセルを床まで踏みつけたまま走り続けることをいう。実際、フランスの車はボディーの大きさのわりにエンジンが小さくて非力なことが多く、出足は悪いが、高速道路で走り続けると、結構な速度が出る。また、その速度を維持しても、エンジンは壊れない。

たとえば、シトロエン2CVという375ccしかない小さなエンジンを載せた質素な車を戦後すぐに売り出す前にも、5000rpm(1分に5000回転)という、限界を超えるほどの回転数で、100時間の連続運転という、なんとも過酷な試験をして、十分に耐えたという。

日本の車が、最高速で走り続けることをまったく想定していないこととは対照的だ。このゴルディニのドライバーも、この「フランス人の残酷さ」を地で行っていたに違いない。

この車は、ドイツ国境に近いMulhouse博物館の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)。


6-5:フランスが頑張れば、ドイツも頑張るのです。「1954年、ロイドの記録挑戦車」

ワインやチーズのような農業製品ならいざしらず、自動車やカメラのような工業製品とあれば、フランスに出来て、ドイツに出来ないものはない、とドイツ人は思っているに違いない。これは、上のゴルディニと同時代の、ドイツの記録挑戦車である。

これも、ドライバー一人が、孤独と闘うコックピットである。しかし、フランスのライバルとちがって、さすが理詰めのドイツ。重量バランスや理想的な操縦
のために、人間は、車体の中心に乗るべきだという信念のもとに、ドライバー席は正確に中心に作られた。

しかも、空気抵抗を減らすために、まるでジェット戦闘機のキャノピーのような屋根までついている。この車に乗るためには、深海潜水艇の乗員と同じで、閉所恐怖症の人は、とうてい無理だろう

しかし、上のゴルディニとちがって、どうやって、車に入るのだろう?

さすがドイツ人の設計で、最終的に操縦席に座れさえすれば、そこに至る過程がどんなに不便でも、堪え忍ぶのである。

右の写真に見られるように、出入り口は、どうみても、この「蓋」である。ここを開けて、操縦席に潜り込むためには、アクロバットのように身体をひねらなければならなかったはずだ。

もちろん、事故や火災のときに、逃げ出すのは至難の業である。

この速そうな車は、しかし、じつは2気筒、わずか300ccというごく小さなエンジンを載せていた。上のゴルディニの1/10である。出力は40馬力。

つまり、トヨタがいままで作った車のうちでもっとも傑作だったパブリカ・スポーツ800(トヨタスポーツ800)のように、小さなエンジンで、空気抵抗で稼ぐ、高速車だったのである。

(1989年8月に、ドイツ・ハンブルグにあった民間の自動車博物館で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


6-6:閉所恐怖症には決して乗れないフランスの車、「1965年プジョー404レコードホルダー」

これもまた、単座の記録挑戦車である。

これは1964年製のプジョー404スポーツ。ベースになったプジョー404は1960年に発売された、ピニンファリーナのデザイン設計で、端正で品がいいデザインのベストセラーカーになった。とりたてて斬新な機構がなかっただけに、修理もしやすく、世界中で広く使われていた車であった。

その404の助手席を取り払い、 シリンダー径88mm、ストローク90mmの 1948ccのディーゼルエンジンを積んだのが、この挑戦車だ。

欧州ではこのプジョーとドイツのメルセデスが、乗用車用のディーゼルエンジンに熱心だった。トラブルの元になりやすい点火の電気系統や点火プラグがなくてすむディーゼルエンジンは、出力はガソリンエンジンより小さかったものの、丈夫で長持ち、が取り柄であった。

このプジョーのエンジンは4500rpmというディーゼルエンジンとしては高回転まで回り、最高速度は161km/hを超えた。当時のディーゼルエンジン搭載車としては抜群の性能を発揮して、数々のレコードホルダーになった。

しかし、乗用車用のディーゼルエンジンが静かになったのはごく最近のことで(それも防音材などの多用もあるが)、一昔前までのディーゼルエンジンは、すさまじい轟音と振動に満ちていた。たとえば「いすゞベレル」という、比較的清楚な姿をした1960年代終わりの日本での初期のディーゼル乗用車は、あまりの振動と騒音のために胃下垂を起こす、というので、タクシー運転手には「ディーゼル手当」が出ていたほどだった。乗せられた客こそ、いい面の皮であった。

このプジョーの挑戦車のドライバーも、狭い密室で、轟音と振動にひたすら耐えたに違いない。

なお、この車はプジョー社の所蔵である。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロー ムKR)


6-7:フランスでなければ生まれなかった「厚化粧」

この色、この飾り立て。なんという趣味であろう。アール・デコの余韻が残っている本家・フランスでなければ生まれなかった車だ。

まず、形からいえば、ラジエターグリルの縦の桟は、鳥や虫が飛び込まないための意味は、それなりにあろう。中央部にクロームメッキの幅の広い桟を配し、そのまわりに、ずっと細かい桟を並べたのは、まあ、それなりのデザインではあろう。

この細かい縦の桟と、それがボンネットの上面にまで湾曲してかかっていることは、1934年に発売された米国・クライスラー社の画期的な流線型の車、エアフローに影響を与えたのではないだろうか。

なお、エアフローは商業的には売れずに失敗した。なお、トヨタが誇らしげにトヨタ博物館に飾っている国産第一号の乗用車、トヨタ AA(1936年)やAG(1943年)は、このエアフローの明確な真似である。

さて、このフランス車では、同じ桟をヘッドライトにもかぶせることから、この車の嫌味は始まる。不整地で石ころでも飛んでくる道を走る車ならいざ知らず、どう見ても、これはデザインのためのデザインにすぎない。

しかし、それでもまだ、飽き足りなかった。エンジンフード(ボンネット)に、機能的にはなんの意味もない、やはり桟仕立て風の翼をひとつつけ、それでも足りなくて、さらに二つ目を加えた。いや、もしかしたら、エンジンルームの熱気を抜くダクトかもしれない。しかし、もちろん、こんな形をしなければならない必然性は、これっぽっちもない。

そして、なお、フロントとリアのフェンダーアーチに、まるで巨大なナポレオン帽のような、飾りまで取り付けてしまった。車に乗り込むときに踏み台にするサイドステップも、デザイン偏重で、実用性がない、形だけのものにされてしまった。

これに色が輪をかけた。深緑と薄紫色。服なら、その日の気分で着替えることができる。しかし、この色の車に、平然と毎日乗る、というのはどういう神経なのであろう。

(1984年、フランス・パリのグラン・パレで開かれた「自動車の歴史100年展」で。残念ながら、この車の年式や名前などのメモが見あたらない。そのうちに発見したら追加する予定。いずれにせよ、1940年代後半の車と思われる。撮影機材はOlympus OM2、レンズはTamron Zoom 35-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


7-1:アイスランドの10輪駆動バス

絶海の孤島であるアイスランドは火山島である。島を回る道路の多くは舗装していないし、橋が架かっていない川を渡る道も多い。

公共交通機関たるバスは、どんな天気のときでも走ってくれないと困る。吹雪のときも、氷河が溶けて増水した川を渡るときにも走り回れる強力な能力が必要になる。

このバスは10輪全部をエンジンで駆動できる。後輪がダブルタイヤになっているために、タイヤの数は全部で10輪ある)。吹雪や霧に備えて、ヘッドランプは上下に二つずつ、合計4つ備えている。

また、基地といつでも交信できるよう、強力な無線機と、長大なアンテナ(バスの右前)を備えている。

(1982年9月、アイスランドの首都レイキャビックの郊外で。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko50mm f1.8。フィルムはコダクロームKR)


7-2:アイスランドの全天候ミニバス

これも、どんな天気のときでも走ってくれるミニバス。

このバスは4輪全部をエンジンで駆動できる。それでもスタックしたときのために、前部に巨大なウィンチを備えている。機能のためには、形など、かまっていられないというデザインである。

バスのブタのような鼻が短くて前方の視界がいいということは、車の4輪のそれぞれがどこを通っているのか、運転中に把握できるので、大きな利点である。

タイヤの通る場所がわずか数センチ違えば、崖から転がり落ちることもあるし、川を渡る途中で立ち往生することもある。不整地を通る車にはじつに大事な要件である。

前のタイヤから車体の前端まで、また後輪から車体の後端までが短いことも、不整地を走るうえで大事な性質だ。また、スウェーデンのVolvo社のlaplanderという、同じような形をした車も、アイスランドをよく走っている。

もちろん、強力な無線機と、車高の2.5倍もある長大なアンテナ(バスの右前)を備えている。

また強力なサーチライトを天井に付けているほか、スペアタイヤや非常用機材を天井に積めるようになっている。

(1982年9月、レイキャビックで。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko50mm f1.8。フィルムはコダクロームKR)


7-3:アイスランドの大型全天候バス

このバスは後輪がダブルタイヤになっているために、10輪全部をエンジンで駆動できるトラックの荷台に客室を架装したものだろう。乗り降りには梯子が必要である。バスと言うより、ほとんど船のような大きさである。

バスの母体になったのは英国MAN社のトラックだ。有名なトラックメーカーである。

高い車室は、かなり深い川を渡っても、水が入ってこない利点がある。見晴らしは良いだろうが、バネは固いので、乗り心地は悪いに違いない。

道の悪いところで動けなくなったときなどのために、強力な無線機と、長大なアンテナ(バスの屋根の右前)を備えている。

(1993年6月、レイキャビックで。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)

{ディスプレイで暗部が見やすいように、わざとコントラストを落として表示してあります}


7-4:アイスランドの救急雪上車

車では全く行けないところにいかなければならないときには雪上車やスノーモービルが使われる。雪崩はアイスランドで恐れられている災害だから、この種の救急雪上車が備えられている。

アイスランドは北極圏にごく近いから、冬は昼間でも真っ暗なことが多い。この車も、8つもの強力なランプをボディーのあちこちにつけている。

日本で威張って走り回っている軟弱なRV車と違って、命にかかわる状況では、本当に良いランプが必要になる。この車はフランス製とドイツ製のランプを付けていた。

もちろん、無線機とアンテナ(キャビンの左前に付いている)も備えている。

(1993年6月、アイスランド西部のボルガネスで。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


7-5:アイスランドの「自動車用マスク」

舗装していない道で、飛んでくる石をよけるために、アイスランドでは、車毎に専用の金網を作って売っている。もしヘッドライトやフロントグリルが壊れたら、遠いヨーロッパや日本から部品を取り寄せなければならないからである。

車はフランスのシトロエンGS。油と窒素ガスを使った特殊なサスペンションを持つユニークな車だ。舗装していない道では真価を発揮する。小型車だが、トランクはあきれるほど広いうえ、トランクの床は、ほかの車よりはずっと低い。

当時のアイスランドの人口は25万人ほどだったから、車の数も知れている。ナンバープレートの字数の少なさはそれを物語っている。

アイスランドでは私の車(当時はスバル1300)用の金網も売っていた。同国ではスバルとダイハツが多い。しかし、スバル用の金網を実際に持ってみると、意外に大きくて重いものだったので、買って帰るのを諦めざるを得なかった。

(1982年9月、レイキャビックで。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)


7-6:貧しい国の「自動車用マスク」

日本では、多くの農道まで舗装されてしまったが、世界には舗装していない道が普通の国が多い。

これらの国では、他の車がはじき飛ばした石による「被害」が跡を絶たない。ボンネットが凹むくらいはしょうがない。しかし、困るのはヘッドライトとフロントウィンドウ(ウィンドウシールド)の破損である。

上の7-5のアイスランドでの車毎の専用の金網のように、手間と金をかけた、それなりに美しい装具と違って、もっと貧しい国では、それなりの安価な工夫が凝らされる。

これは、アルゼンチンの南端、世界でももっとも南の町であるパタゴニア、ウスアイアの車だ。

車はフランスのルノー・トウィンゴ。愛嬌のある顔と、ごく小型の外形と、1200cという小さいエンジンを持つが、中はそれなりに広く、フランスの小型車のよき伝統を受けついでいる安価な名車だ。とくに、後席が前後にスライドして、必要なときは、とても広い足許が確保される、秀逸なデザインを持つ。

よせばいいのに、世界の車は、1970年代ごろから、それまでは標準型だった丸い目のヘッドライトをやめて、車種毎にちがう形のヘッドライトを採用しはじめた。ヘッドライトにとってもっとも重要な機能である配光特性が優れているわけでもないのに、たんにデザインに引きずられただけの改悪である。

このトウィンゴも例外ではない。もし、このヘッドライトが割れてしまったら、従来のように一般的にどこでも手に入る丸目のヘッドライトでは間に合わない。そのうえ、車の部品を本国のメーカーから取り寄せるのには時間も手間もかかって、しかも高価につくパタゴニアである。

たとえ、みっともなくても、背に腹は替えられない。アクリル板を切って、L金具で止めて、という、いかにも手作りの不細工な防具が誕生したのである。

近頃の日本の自動車修理は、もっぱら「アッセンブリー交換」で行われる。つまり、一部だけ悪かったり壊れているのに、その部分全体の部品を交換してしまうやり方である。ちょっと凹んだだけのバンパーや、トランスミッションや、ときにはエンジン全体さえ、このように「修理」する、贅沢で、しかも資源を無駄にするやり方だ。

しかし、アルゼンチンやメキシコなど、車が生活にどうしても必要だが貧しい国では、このような贅沢は許されない。たとえば、サイドミラー(運転席の横についていて後ろを見る鏡)が割れたときにも、 日本だと、根元ごと「アッセンブリー」で交換するのが当たり前だが、割れたガラス部分だけを切り抜いて、別のをはめる修理が普通なのである。

(2004年9月、南米パタゴニア・ウスアイアで。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは70mm相当、F2.8, 1/160s)


8-1:旧ソ連のリアエンジンバス

機能のために形を犠牲にすることがある。ぎりぎりの性能を追求しなければならないときには、美的な形かどうかをかまってはいられないから、という場合が多い。しかし、それらの機械は、それなりに美しいことが多い。

ところで、この不格好なバスはなんだろう。

多分、リアエンジンバス(エンジンが後部にあるバス)で、エンジンを冷却するための空気取り入れ口を天井に置いたのだろう。悪路を走るために土煙やゴミをなるべく吸い込みたくなかったのかも知れない。

日本でも試験的に作った「飛鳥」という飛行機が、滑走中の土煙やゴミをなるべく吸い込まないために主翼の上にエンジンを置いた不格好な形だったことがあるが、このバスもそれに匹敵する。

なお、この「飛鳥」には先輩がいる。旧ソ連のアントノフ72とアントノフ74や、ドイツで作られたVFW614というジェット旅客機だ。

なお、「飛鳥」は当時の運輸省主導型の低騒音STOL(短距離離着陸)実験機だったが、1985年に初飛行して以来、わずか数年で計画が打ちきりになった。

このバスの運転手はカタツムリを運転しているような気分だったに違いない。

(1974年3月、極東ハバロフスク市内で。市内にはまだ雪が残っている。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko 100mm f2.8。フィルムはコダクロームKR。外式というカラーフィルムだけに、30年以上経っても色が褪せないのは立派なものである)


9-1:下も上も満載のルーマニアの天然ガス燃料のバス

チャウシェスク時代が終わろうとしていたルーマニアでは、バスの数も少なく、たまにしか来ないバスに鈴なりになるのが普通だった。

また、産油国なのに、産出した石油は国内には出回らず、外国の負債を返すために輸出に回されたから、車の燃料も不足がちで、このような天然ガスのバスも走っていた。

1985年10月、ルーマニアの首都ブカレストで。滑稽なほど巨大なガスタンクを背負っている。

もっとも、チャウシェスク時代が終わってからも、かつての東欧圏諸国の優等生であるポーランドやハンガリーと違って、ルーマニアは決して豊かにはなれなかった。

日本よりもノーベル賞科学者が多い国なのに、科学者の給料も遅配しているうえ、研究費もほとんどない状態が続いている。優秀な若手の科学者は、国を捨てて流出を続けている。

2007年にルーマニアは念願のEU加盟を果たした。しかし、EUのなかでももっとも貧しい国と、それを抱え込むことになったEUがどうなるのか、問題は多い。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


10-1:「寒がり」の中国の軍用ジープ

ボンネットまで分厚いキルティングを着ている「寒がりの」四輪駆動ジープ。ラジエター前部も、黒いマスクをして、その日の気温や天気を見ながら、マスクの一部だけを用心深く開けている。

大陸性気候である中国内陸部は、冬の気温は零下30℃を下回ることは珍しくない。幌で覆われた車室内はとても寒かろう。しかし、ボンネットは、少なくとも走行中は、冷やす必要はないはずだ。

それとも、この種の「着物」を作る産業がちゃんとあって、車の数だけ、軍に供給する仕組みになっているのだろうか。

1985年11月、中国・北京の郊外で。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


11-1:「ボール紙で出来た」と誹謗された東ドイツの国民車・トラバント・Trabant

ドイツが東西に分かれていた1980年代までは、東ドイツで大量に作られた4人乗りの小型乗用車、トラバントが、東ドイツだけではなくて、東欧各国に輸出されて、広く使われていた。

どんな貧弱な車でもいい、車がある生活がほしい、という東側の庶民の夢を実現する貴重な車であった。

4人が乗るには無理をして身体を縮めなければいけないごく小さい車だが、一応、3ボックス型で、後部にはトランクがついている。しかし、小さな車なりのデザインの哲学や思想はなにもなく、大きな車を、そのまま縮小コピーした形をした、ただ小さいだけの車なのが哀しい。

車体の長さは3555mm、ホイールベース(前後の車軸間の長さ)は2020mm、車体の重さは615kgである。前進4段の変速機を持っている。最高速度は100km/hと謳われていた。

エンジンは構造が簡単で、エンジンの大きさの割にはトルクが出る2サイクルエンジンが使われていた。2サイクルエンジン特有の甘い排気音と、ガソリンに混合したエンジンオイルが燃える青白い煙を吐きながら走る。

日本でも、スバル360や、スズキフロンテ360や、スズキフロンテ800や、スズキジムニーなど、2サイクルエンジンを使った名車があったが、構造上、エンジンの吸気弁と排気弁が同時に開く仕組みなので、排気ガス規制をクリアーすることが出来ず、2サイクルエンジンは、すべて姿を消した。

このトラバントの エンジンは2気筒で594cc、いまの日本の軽自動車よりも小さい。

この車は、西側では、ボール紙でボディーが作られている、とおとしめて言われていた。しかし、正確に言えば、写真の「断面」に見られるように、粗悪ながらFRP(ガラス繊維入りプラスチック)である。

安くて軽いが、もちろん強い材料ではないし、ぶつかったときには、金属とはちがった壊れ方をする。なお、FRP自体は、日本でも漁船やレジャーボートなどに広く使われている。

なお、写真右側に見える白い車も、同じトラバントである。

1991年9月、ハンガリー・バラトン湖近くで。トラバントは急速に数を減らしているが、いまでも旧東欧諸国では残っている。また「旧」西側では、その愛嬌がある姿と、メカニズムがあまりに簡単で修理もしやすいために、トラバントの好きなマニアもかなりいて、同好クラブもある。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


12-1:ポルトガルの貧相な三輪車、しかしメーカーは名門「Ducati」

雨さえしのげれば、と言う程度の貧しい三輪車。ワイパーさえない。というよりは、前面はガラスではなくてビニールの布なので、ワイパーを着けようもないのである。一人乗りで、後部にちょっとした荷物が積める。

しかし、メーカーはイタリアのDucati デュカティ、二輪車のメーカーとしては名門で、日本ではほとんど神格化されたバイクのメーカーで、熱狂的なファンが多い。この三輪車にもデュカティらしい「走り」は期待できるのだろうか。

ちなみに、このみすぼらしい底辺の実用車とくらべて、中国の小型三輪車は、ずっと、誇らしげに使われている。

1993年9月、リスボンの裏町で。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


12-2:パリの「濡れたくない」三輪車

こちらもワイパーさえない三輪車。一人乗りだ。(なお、厳密に言えば、後輪は二つのタイヤが狭い間隔で取り付けてあるから4輪車と言ってもいいのだが、私はディファレンシャルギア(左右のタイヤの回転差を吸収する機構)がついている「ちゃんとしたもの」を4輪車と考えているので、これは、そういう意味の4輪車ではない)。

パリはめったに雪は降らないが、冬は寒い。日本のように強い雨は降らないから、ロンドンと同じく、傘をさして歩いている人は少ないが、濡れれば風で、また冷える。三輪車には耐え難いほど寒かったのに違いない。外から見ると、かなり滑稽に見えるという重大な欠点に目をつぶって、この不器量なカバーに包まれて町を行くのである。

驚くほど立派なシートをつけているのは、さすがフランス車というべきであろう。

しかし、夜はヘッドライトがビニールの内面に反射して、かなり見えにくいのではなかろうか。

フランス・パリの市内、アリグレの朝市で。2002年2月に撮影。

(撮影機材はOlympus OM4Ti、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


12-3:上の車ではあまりに貧相だと思う人がオランダで買う車

上のパリの車ではちょっと貧しい。雨の日にはワイパーくらいはほしい、すきま風もいやだ、という人たちが買う車。2003年夏、オランダ・アムステルダムで。

この車ならば二人で乗れる。ハンドルは自動車と同じ丸ハンドルだ。ヘッドライトは二つついているし、乗り心地だ、速度だ、エンジン音だと言わなければ、とりあえず、これで十分なのであろう。

それだけではない。どんな小さな隙間にも、ときには縦列駐車の間に割って入って、縦にも駐車できるのは、ヨーロッパの都会では、大きな取り柄である。

しかしこの車には「スマート」(時計メーカーのswatchが開発をはじめたが、その後ダイムラークライスラーのものになった)のような、都市の車に対する「哲学」が感じられない。底辺の大衆の迎合した、それなりに安価な車の一種にしかすぎないのである。

(撮影機材はNikon F100、レンズはNikkor 28-105mm F3.5-5.6)


12-4:いや、それならフランスでも作れる、とパリの超小型車

欧州では、日本のように、運輸省の形式認定だ車検だ、とうるさいことを言わないだろう。ちょっと器用な町工場が、独自のデザインで出来合の部品を集めて、超小型社を作り上げる。もしかしたら、客の注文に応じて、オーダーメイドで作るのかもしれない。

上の12-2の質素な車と比べて、タイヤは同じようなものだが、それ以外は、はるかに洗練されている。 丸ハンドルの二人乗り。さすがにフランスで、シートは立派なものが着いている。

デザインは破綻がない、立派なものだ。1998年10月に日本の軽自動車の規格が変更されて全長が10センチ延ばされたときの、各社のみっともない顔つきの軽ワゴンにくらべると、よほど品のいい端正な顔をしている。

前後左右の窓も大きく、視界もとてもいいだろう。サイドの窓は引き違いガラスだが、この大きさのガラスだと、ドアの中に引き込むことは不可能だから、それなりに合理的である。

唯一の弱点は、この車に乗っていると、運転者の身体や顔がとても大きく見えることだろう。

パリの多くの車と同じく、この車も傷を負っている。左の前のフェンダーが脱落しているのはご愛敬だ。

フランス・パリの市内、バンブの蚤の市で。1998年に撮影。フランスでは、このように小型車が「縦に」駐車することは違法ではない。日本のように不必要に大きな車を持たないフランス人の知恵である。

(撮影機材はOlympus OM4Ti、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5)


12-5:あまりに威厳と威圧感がないパトカー (ブエノスアイレス)

庶民が買うのならば、警察が同じような小型車を買ってなにが悪いのだろう。これはブエノスアイレス随一の繁華街、歩行者専用のフロリダ通りとラバージュ通りを巡回する警察のパトカーである。

見られるように、一人乗り。警察の車に必要な威圧感は、微塵も感じられない。 暴漢に体当たりされたら、あえなく転倒するかも知れない。

もっとも、アルゼンチンでは、 これはこれでいいのかもしれない。というのは、私の知人の科学者の家では、南極に行っている間、夫人だけが寝ている家のガラス戸をこじ開けて泥棒が入って、居間のテレビを盗まれた。しかし、警察には届けなかった。

警察に届ければ、「現場検証」を終わって家の構造や内部を熟知した警察官が、次には泥棒になって侵入しかねない。なかには「商売道具」のピストルを武器にする警官の強盗も出没する国なのである。

この車はまったく無音で走る。つまり電気自動車だ。速度はせいぜい人が歩く速さである。

ちなみに、日本以外の国では、パトカーは、赤ランプの点滅(あるいは回転灯)ではなくて、青ランプの点滅(あるいは回転灯)ことが多い。これはこれで、夜は威圧感が強い。

(撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。2004年9月に撮影。レンズは162mm相当、F4.0, 1/320s)


13-1:シトロエンDS19は自分で何にでも改造できる

私がもっとも高く買っている車は、フランスのシトロエンDSである。1955年に発表されたこの車は、それまでのどの車にも似ていなかった。上の5-4に書いたように、設計はフラミニオ・ベルトーニである。

前部にエンジンを置き、前輪駆動の仕組みだから、車の後半には、タイヤ以外のメカニズムはなにもない。それゆえ、この写真の車のように、車を勝手に切ってしまって、後半分に巨大な金属の箱を取り付けても、ちゃんと走るのである。

何を入れるための箱だろう。よほど開けてみたかったが、家の前に駐車している車でもあり、ヒモをほどかないと開きそうもないので、さすがに遠慮した。

シトロエンは、ブレーキ、サスペンション、パワーステアリングに、すべて共通の油圧(と圧縮した窒素ガス)を使うという極めて先進的で合理的な仕組みであった。サスペンションは、他の車のように金属のバネを使うのではないから、このように停車時には下がっているが、エンジンをかけるとともに、車体が持ち上がる。周りの人々を驚かせるのに十分な仕掛けだった。

また、量産車として最初のディスクブレーキも採用した。ボンネットは当時としては極めて珍しいアルミ製だった。1967年以降のモデルでは、ヘッドライトが、ハンドルを切った方向に照射角度を変える。


本来の乗用車の姿の時は、内部はあきれるほど広かった。デザインは賛否両論があり、カエルのようだという評判もあったが、空気抵抗が少なく、何年たっても古びない、先進的な形だと、私は思っている。

このシトロエンDSは、1955年のDS19以来、DS20、DS21、DS23、IDシリーズなどのいろいろなバリエーションがでたが、基本的な設計や形は1975年まで踏襲された。

残念ながら、シトロエンも、その後は次第に「普通の」車を作るようになり、1974年にプジョーグループの傘下に入り、昨今はプジョーと同じエンジンで同じシャーシーである、なんの変哲もない車に成り下がってしまった。

ところで、切り離してしまったこのシトロエンDSの後半分は、いま、どこにいるのだろうか。

きっと、自宅に置いてあって、ソファーのかわりにしているに違いない。この車はシートも、他のどの車とも似ていなくて、柔らかく包みこんでくれて、しかも疲れない、絶妙のシートなのである。座面が意外に硬く、背骨をしっかり支えてくれて、しかも疲れない、というドイツのレカロのシートとは両雄をなす。シートにも国の文化が現れているのである。

オランダ・アムステルダムの運河沿いの道、運河に浮かぶ「住宅船」の前で。2003年夏に撮影。

(撮影機材はNikon F100、レンズはNikkor 28-105mm F3.5-5.6)


14-1:「行った先」に仕事がある車

乗り物は、その名の通り、ある行き先まで、人や荷を運ぶためのものである。

しかし、なかには、 行く先へ着くまでだけではなくて、行き先で仕事がある車もある。これがその車だ。

見られるとおり、これは花屋のトラックで、じつは見えるかぎりの左端までが、一台の花トラックなのである。毎日朝早くこの教会の脇の決まった場所に来て、夕方まで止まっているのが「仕事」なのだ。

着いてからが忙しい。まずトラックのサイドパネルを跳ね上げて手間の庇をつくり、つぎに、トラックの屋根部分を二段階に後にせり出してから、それぞれのサイドパネルを跳ね上げる。屋根を支える柱の下にはキャスター(小型のタイヤ)が付いている。

そして、トラックの中に積んであった花を、運転席から最後部まで、そして庇の下まで、所狭しと並べて、天井の電灯を点ければ、ようやく、花屋の商店の開業となる。この全部の作業を母娘の二人でこなしている。ドイツ人女性は、なかなかの働き者である。

このトラックを運転するのは、花の匂いに囲まれるのはいいのだが、なんとも運動性能が悪いトラックだし、荷傷みしやすい積み荷にも気を遣わなければならないので、なかなかたいへんに違いない。


2004年7月。ドイツ北西部の北海の海岸近くにあるブレーメンで。ブレーメンは、私がよく行くノルウェーのベルゲンと同じく、1200年の歴史を持つハンザ同盟の都市である。

ブレーメンは「ブレーメンの音楽隊」で有名な町だ。旧市街の中心にある市役所前には、ブロンズの音楽隊の像が立っている。ロバの足に触ると幸せになれる、という言い伝えがあり、ロバの前足は真鍮の地が出てぴかぴかになっている。ついでに、ロバの鼻も金色に光っている。

ロバの足に手が届かない妹が、兄に引っ張り上げてもらっている。この2分後に、兄妹はどうなったのでしょう。その写真は。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。上は57mm相当、F3.7、1/125s。下は143mm相当、F2.8、1/100s)
14-2:これも行った先で仕事がある、まな板屋さんの車

これもブレーメンの旧市街、上の音楽隊の像から20mばかりのところで営業している、露天のまな板屋。

毎日、同じところに来て、毎日、同じように車の上に毛布を拡げ、毎日、同じように、小さな車に満載したテーブルと、驚くほど多くのまな板と、少しの木工製品を車の上やまわりに並べて客を待つ。

まな板はどれも大きさが違い、厚さも違う。どの商品にも値段が入っていないが、すべては彼女の頭の中に入っている。いや、胸先三寸というべきか。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。45mm相当、F4.0、1/400s)


14-3:これも行った先で仕事がある乗り物、消防車(フランクフルトの給水車)

行った先で仕事がある典型的な代表は、消防車だ。これはドイツ。フランクフルトの消防署が持つ給水車だ。巨大な水タンクを持ち、現場に駆けつけ、消防車に水を供給したり、ときには水害や水道の故障で困っている人々に水を配給する。

暗い現場でも活躍できるよう、強力な投光器を備えている。

なかなか、愛嬌のある顔つきをしている。ラジエターグリルにはリンゴと水差しが描かれている。

ところで、ハンドル(左ハンドル)が途方もなく高いところにあるのに気がつくだろうか。これは、かつて火の見櫓に登って火事を監視していた消防署員の、少しでも高いところから世界を見よう、という天性ゆえの設計かもしれない。

なお、欧州では緊急車輌、つまり消防車や救急車やパトカーは、日本のように赤いランプを点滅させるのではなく、このように青いランプを点滅させる。これは、赤よりも凄みがある。サイレンの音も、日本とはちがう。

(2004年7月。フランクフルトの祭りで。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。40mm相当、F4.0、1/250s)


15-1:これが世界一の超音速機に見えますか:コンコルドの顔

人間の場合は、正面から見てスマートなら、横から見てもスマートなのがあたりまえだ。しかし、史上最高速のジェット機は、前だけから見ていると、横から見た姿は想像も出来ない。

すでに引退してしまったが、いまだにこの飛行機ほど高速で飛べる旅客機は、現在もない。 マッハ2。音速の2倍という速度だ。エアバスやジャンボなど、現在飛んでいるジェット旅客機よりも倍以上速い。

しかし、ずいぶん小さく、また主翼も小さく見えるうえに下向きに曲がっているのもみっともない。

また、よく見ないと分からないが、運転席から左右に生えた、フランス語では「口ひげ」と呼ばれる小さな翼が出っ張っているのも、イボのようで、あまり格好がよくない。

機体の全長は62mあるが、全幅は26mしかない。

小さいのは機体だけではない。内部は2列+2列しかなく、旅客が外を見られる窓は、葉書くらいの大きさしかない(下の写真の原画には、驚くほど小さな窓が写っている)。前後の座席のピッチは86cmと狭い。一方、運賃はほかの飛行機のファーストクラスよりも高い。128人の客を乗せられる。

なお、操縦席の前方の窓には二種類あり、英国航空のコンコルド(右写真)は大きな二枚のガラスになっている。上の写真は操縦席の窓が多いエアフランスの機体である。

このコンコルドは1976年から商業飛行を開始した。21世紀になって引退を余儀なくされたのは、大変な騒音をまき散らすことと、燃費があまりに高くて商売にならなかったためである。離陸開始時の重量は187トンだったが、そのうち約半分の92トンは燃料だった。

なお、日本航空は1960年に3機のコンコルドを予約し、1973年3月の引渡しを条件に仮契約を結び、70万ドルの予約金を支払った。 しかし、1973年には無条件解約の契約を改めて予約金も返却してもらい、1974年12月には導入を完全に断念した。

技術としては成し遂げられても、社会には受け入れられないものがある。このコンコルドも、不幸にして、その仲間になってしまった。

2000年7月にこのパリ空港から離陸したコンコルドが墜落炎上した事故も運航停止にとどめを刺した。 離陸滑走中に滑走路上の金属片を踏んでしまった不幸な事故だったが、乗客乗員109名全員と地上の4人が死亡する大事故だった。コンコルドが引退したのは2003年10月であった。

(上の写真は1998年3月、パリ・シャルルドゴール国際空港で。下の写真は、1991年3月、ロンドン・ヒースロー空港で。ともに撮影機材はOlympus OM4Ti、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


「不器量な乗り物たち」その2:極地編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その3:深海編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その4:日本編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その5:鉄道・路面電車編はこちらへ
「不器量な乗り物たち」その6:戦前・戦中編はこちらへ


島村英紀が撮った海底地震計の現場
島村英紀が撮った写真の目次へ
島村英紀のホームページ・本文目次へ
島村英紀の「今月の写真」へ