短編集一


 湖にて

 水面から蒸気が立ち上っている。湖の表面の温度が気温より高いために広い湖の水面から次々と蒸気が湧き出しては上空へ流れ込んでいく。
 まだ明けきらぬ朝の濃紺の空に浮かんでいる雲は、まるでこの数分のうちにこの湖からの蒸気で出来上がったように、形の定まらないままで不安定に漂っている。山間から朝日が差し込んで来て夜と朝の境目を溶解していくと、西側の空は太陽の日差しにその領土を明け渡していった。
 彼はその中に立って、その夜明けを眺めながら今日の一日が始まっていくのを感じていた。なぜこんな朝早く、まだ夜も明けぬうちに起き出してこの湖まで来てしまったのだろう、自分の行動にはっきりとした理由を付けられないまま、彼は目の前で自分の住む側の世界が朝日に染められていくのを眺めていた。
 彼は今日はまだ誰も吸い込んでいないこの場所の空気を肺の奥まで吸い込んでみると、取り合えずは自分を衝動的にこの場所まで運んでしまった実態の掴めないもやもやは消失してしまったように感じた。


 悲しい部屋

悲しみがあった。ドロドロと陰湿な固まりだった。
やがてそれは溶けだすように染み込んで来た。

もう空に太陽は残ってはいなかった。体の内側で、
それは地球上のあらゆる物が重力に従い高いところから
低いところへ落ちてくるように、自然と心臓の近くに収まった。

どこかで野良犬が鳴いた。遠吠えでも威圧的な呻きでもなく、
どこかでクゥーンとだけ言った。それだけのことが妙に悲しかった。

夜はあらゆる物が悲しみに見えた。明日の朝になれば自分は
希望で目が覚めるのだと言い聞かせてみた。しかし希望が悲しみの
原因である気がして、眠ることさえも恐怖に満ちていた。
「明日になればね」お前は言った。
「ふん!」それはいつもと同じまるで代わりばえしない言葉だった。
まるでお前の語彙にはその言葉を置いて他に無いのだと言わんばかりに。
それは半年前も、三ヶ月前も、一ヶ月前にも代わりばえのしない発音で
この部屋の宙に浮いていた。 その言葉を透かしてよく外を見た。
昼夜問わずこの部屋から 見えるのは決まっていた。
お前が去年の春にどこからか貰って 来た薄白い花。
そして曇りか雨か晴れかいずれにしたところで 虚しいばかりの空だった。


 空虚

僕あ、嘘みたいな夕焼けが落ちて行くその後の濃紺の空が好きなんだア。
終始眺めていても空に星が流れぬ夜には名前をつけてやりたくなるなぁ。
少し考えてみるべきか。不慣れだからなぁ…どうも。空虚ってのはいい言葉だね、
俺は正に空虚なんだよ。空から雨が降り出すと安心するんだ。
世界でも泣く日がある。
最近お前は泣いてばかりいる。俺はそれが悲しいからそら涙流すんだ。
僕あ空が好きなんだよ。
何処かの空じゃ四六時中、爆撃機が飛び交ってるらしいが。
こないだお前が出かけている間にも俺はそうして空を眺めていたんだ。
そうして爆撃機が飛んで壊れていく世界を考えていたんだア。
花火の様な火花の中を焦げた人々が走って行く。
爆風でタンポポの綿毛が飛んで行く…殆ど燃え尽きてしまうが。
俺はいつの間にかそこにいて人々の流れとは逆に走っているんだぁ。
その素晴らしい景色の中に。走って行こう。走ってあの鐘楼へ行こう。
そこへ登って空を見よう!これが俺の空だ!


 或る三人組の話

三人組がいた。その三人はいつも一緒だった。

もしかしたら一緒じゃない時もあったかもしれないが
誰も一人でいるところを見たことがなかった。

いつも右側にいるやつがいた。
いつも真ん中にいるやつと、いつも左側にいるやつがいた。
だが彼らは三人ともそっくりで誰も見分けがつかなかったので
いつもきまってその位置にいるわけではないのかもしれなかった。

真ん中が言った。

―雨が降りそうだ。

右側は道路端の花壇を見ていた。

左側は言った。

―風が強くなってきた。

夜が来た。台風が街を飛ばした。後には何も残らなかった。