空の晴れた日は


 空が晴れると元気になる。
 太陽光線は皮膚の脂肪に作用してビタミンDを作るという。ビタミンDは元気の源だろうか?そう思って毎日ビタミンDを沢山取ってみたけれど六月の雨ばかりの空の下、僕の憂鬱は全く晴れなかった。
 もう四日程続いている雨はこの一ヶ月間ろくに干していない僕の布団と、盆地で水はけの悪いこの街をビショビショにしていた。湿度の高いベタベタしたこの空気は魚も泳げそうだ。僕ももう少し軽ければクロールで何処かへ行けたかもしれない。そんなことを考え、十二時になりテレビを点けるとお昼の天気予報の気象予報士がまるで指揮をとる様な大袈裟な身振りで天気図を挿しながらこの雨がいったいいつまで続くのかを説明しているところで、それによれば「このぐずついた天気も週明けには全国的に晴れるでしょう」ということだった。
 外を見ると相変わらず雨は時折止んだようにまた、叩きつける様に降り続けていた。よく見ると窓に小さな蝶が貼り付いていた。窓際に取り付けた電灯に反応してか、硝子で遮られたこちら側に来ようと羽をバタつかせている。それを呆と見ながら僕は虫が何故明かりに向かうのか、昔知り合いがこんな事を言っていたのを思い出した。「虫達は皆太陽を目指しているんだ。そして何万分の一という確率で虫達は太陽に辿り着く。しかし今、世界には色々な光源が満ちているだろう?地上僅か数メートルの所にある自動販売機や窓から漏れる蛍光灯の明かりなどを虫達は太陽と間違えてしまう。だから虫達が太陽に辿り着くのは今じゃ殆ど無いんだ。」「じゃあ夜行性の虫はどこを目指してるんだい?」と僕が聞くと「もちろん月を目指してるのさ。」と彼は言った。
 太陽に辿り着いた虫たちは一体どうなるのだろうか。現実的に考えれば燃えつきるに決まっているけど。しかし彼は少し頭のおかしなことで有名な人物だった。そんな質問をしても意味のないことだと分かっていたのでその話はそこで終わった。
 ふと目をやると先程の蝶はもうどこかに消えていた。風が強くなり横なぐりになった雨に流されたのかもしれない。僕は布団を干すためにどうやら日曜日にはやって来そうな高気圧を待っている。

 ようやく雨が上がった日曜日、僕はベランダに布団を干してから近所に散歩に出かけた。
いつも散歩する道の脇に大きなテントがまるで一晩のうちにヌッと現れた様に建っていた。サーカスが来たらしい。ピエロが大げさな動きで子供達に風船を配っていた。一人の男の子が風船を握り締めながらしきりに飛び跳ねていた。僕は横目に通り過ぎながら先日『人類月面初着陸』というドキュメンタリー番組で見た月面でスキップするアームストロング船長を思い出していた。船長は「これは小さな一歩だが人類にとっては大いなる一歩だ」と言って月への一歩を踏み出したが、風船を持って飛び跳ねる彼にはその一歩一歩がなにか大きな一歩なのかもしれない。
 僕が移した視線の先で降り続いた雨が残した大きな水たまりを、飛沫を上げながら車が通り過ぎて行った。飛び散った飛沫が道路に黒い染みを点々と作り、電線の上でカラスが笑うように鳴いた。僕は歩きながらやがて近づいてくるその水たまりを覗く準備をした。もちろんそこに何があるわけでもないのだけれど。そこには自分の顔が映っていた。夏が来る前の日焼けしていない白けた顔で。僕は歩みを止めずに今日これからするべき事を考えながら水たまりの飛沫で斑になった道を歩いた。
 公園には鳩に餌をやる老人がいた。彼はベンチに座り袋から餌を取り出しては目の前に投げ、鳩の集団がそれを突っつくのをただ見ていた。ベビーカーに収まった小さな子供が母親に押されながらそれを興味深そうに眺めていた。そんな景色を見ていたら、今日からしばらく晴れそうな一週間を僕は穏やかな気持ちで送れる気がした。
 ふと鳩に餌をやっていた老人が視線を上げて、僕が目の前を通り過ぎようとしているのに気がつくと声をかけてきた。
 老人の顔つきは友好的で優しい目をしていた。僕が隣に腰を下ろすと誰かに確認する様に「鳩はいいです。」と老人は言った。「昔ね新聞記者をしていたんです。その頃にね鳩にはお世話になったんですよ。」老人は鳩に餌を与え続けていた。そして次のように喋った。
「昔は取材をしたあとすぐに原稿を送る手段がなくて鳩を使ったんですよ。鳩はとても小さくなってポケットに収まるくらいになるんですよ。だから新聞社を出るときに屋上で飼ってる鳩を連れて行くんです。」
 鳩の帰巣本能の正確さを一通り語った後、老人はその鳩の飼育をしていた人物について話し出した。 「鳩の世話をしていたのは私の一つ年下の女性でした。彼女が鳩の持って来た伝書を受け取って、それをそれぞれの場所に持って行くのです。鳩達はとても彼女に懐いていて、他の者が近づくと警戒しましたが彼女だけは近づいても大人しくしていました。私はそんな彼女に好意を持ってました。ある日、急の取材が入って私は鳩を連れて現場に行きました。すると取材相手が待ち合わせ場所に来ず、私は手持ち無沙汰になってしまいました。私は急に思い立って手紙を書く事にしました。彼女への好意の手紙でした。そしてそれを鳩に持たせて鳩を放しました。」遠いような近いような目をして老人はこのように喋った。それでどうなったのか?と僕が尋ねると老人は「それが、今の女房です」と笑って答えた。
 老人の手からは話の最中にも既に相当の量の餌が投げられていたが、白い買い物袋の中の餌はまだまだ無くならない様だった。

 僕は電気屋によって100wの電球を二つ買った。夕べ台所の電灯のスイッチを入れると一瞬の点滅を残して電球が寿命を迎えた。エジソンが発明した電球は今や人々の生活に欠かせない物になった。しかし以前の知人の話にそって考えればエジソンがこの電球を発明して以来、虫達が太陽にたどり着く確率は激減したんじゃないだろうか。そんな事を思いながら僕は家に帰った。午後になると昨日までの低気圧が残して行った空気を晴れた陽射しが蒸し始め、地面から蒸気があふれて湿度の高いもやもやとした肌触りの空気になった。
 夕方テレビをつけると相撲がやっていた。今日も高見盛は重病の子供と約束していたホームランを打ちそこねてしまった野球選手のような落ち込みかたで土俵を去って行った。
 相撲が終わると僕は台所の電球を取り替えてスイッチを入れた。明るく流し台が照らされると冷蔵庫の音までが明かりに照らし出されたような気がした。電球のエネルギーも冷蔵庫のエネルギーも笑うように鳴いていたカラスの足下を通って僕の部屋までやって来る。その冷蔵庫の音を聞きながら中身を覗くと僕は麦茶を取り出してコップに注ぎ一息で飲み干した。
 窓の向こうには夕焼けでオレンジ色になった空があった。夕焼けは、僕の頭上に濃紺の空を残して行き、完全に暮れた頃、夜行性の虫達が月に向かって飛び始め、僕の部屋の明かりにたどり着く。窓に張り付いた虫達を僕はカーテンで遮って、無音の部屋でただ冷蔵庫の音を聞いている。

 夜になるとベランダで夜空を見た。空には月はなかった。星明かりは降るように空を覆い尽くしていた。今、僕の皮膚を爆発したり衝突したりして壊れた星の破片が毎秒何千個、何億個、何兆個とすり抜けて行く。もしかしたら僕はそれによって、気づかないうちに何か変えられているんではないか。そんな気がした。