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島村英紀が撮ったシリーズ
「不器量な乗り物たち」その4:日本編
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1-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その1・フジキャビン5A型
(1955年)第二次世界大戦の敗戦国として焦土から立ち上がった日本とドイツは、1950年代には経済成長を遂げ、戦争の傷跡も消えかけていた。
ファミリーカーは、当時の人々にとって、とうてい手の届かないものだった。このため、メーカーとしては、少しでも安く、少しでも簡素に作った質素な車を一生懸命作り上げた。これは日本に限らず、ドイツも、また戦勝国ではあってもやはり焦土から立ち上がったフランスでも同じだった。
車である以上、1人乗りというわけにはいかない。しかし4人乗りだと大きくて高くなってしまう。こうして2人乗りになった。
ヘッドライトは、1つのほうが、もちろん2つよりも安い。タイヤは4つよりも3つのほうが安い。そのうえ、後輪を1つにすることによって、ディファレンシャル・ギヤのような複雑で高価なメカニズムが不要になる。
こうして、あちこちを切りつめていって、この左の写真のフジキャビンが出来た。
方向指示器も、これならばたったいひとつで、前からも後ろからも見える。
設計したのは富谷龍一氏である。なお、氏は下の2-1のフライングフェザーも設計した。日本では有数のすぐれた設計者だと思う。初期のシトロエン(フランス)の名車を作ったフラミニオ・ベルトーニにも匹敵するかもしれない。車を作ったのは、日産自動車系のエンジンメーカーだった富士自動車であった。オートバイも作っていた。いまはなくなってしまったメーカーである。
つまり当時は、フランスも日本も、一人のすぐれた設計者が存分に腕を振るえる時代だったのだ。オースチン・ミニを作ったアレック・イシゴニスもその一人だ。 近年のように、マーケットリサーチだ、コンサルタントだ、重役の承認だ、といった数々の障壁ゆえに、時代を超えた特徴のある車が出せなくなったばかりか、どの車も横並びで面白くなくなってしまった時代からは考えられない、良き時代なのであった。長年の「スバル党」である私が近年のスバル車に、以前ほどの魅力を感じなくなってしまったのも、同じ理由からである。
小型車には小型車のデザインがある。しかし、大型乗用車にあこがれて、ちまちまとした物真似になってしまった哀しい姿の車、たとえば、ドイツのロイト600や日本の二代目トヨタ・パブリカと比べれば、このフジキャビンのデザインは、なかなかユニークで優秀だ。
左上の写真に見られるように外装はプラスチック(FRP樹脂)で、軽くて、安く作れる。この車の重さはわずか145kgしかない。モノコックボディという、軽くて強いボディ形式を採った。当時としては先進的な構造で、日本の乗用車がモノコック構造を普通に採用し始めたのは1960年代だった。
この車の尻尾は、なんとも愛らしい(右の写真)。エンジンを中に入れ、その熱気を抜くためのルーバーを3つ切り、そしてエンジンを点検したり修理したりするためのフード(蓋)を、蝶番で両側に着けただけの必要最小限の装備だが、巧まざる愛嬌になっている。フードは蝶の羽のように両側に開く。
初期モデルでは、運転席のドアは左側にしかなかった。モノコックボディの強度を確保するためだったろう。しかし、あまりに不便だったので、後のモデルではこの写真のように左右1枚ずつのドアになった。
なお、いちばん上のルーバーの左側はガソリンを補給するための燃料注入口である。エンジンの上にガソリンタンクがあり、そこに発火性が強いガソリンを補給するのは危険なことだったが、それはほぼ同時期に作られた「僚友」、ドイツのハインケルでも同じだった。
じつは富谷氏はドイツの小型車を研究していた節がある。前2輪、後1輪という構成といい、後部にエンジンをおくことといい、ドイツから学んだのであろうか。
ハインケルの後部も可愛らしい。しかし、ちゃちなものとはいえ、バンパーが前部と後部に着いているのは、ドイツのほうが、少しは衝突安全性を考えていた、ということであろう。
エンジンは2サイクルエンジンで、空冷単気筒。121ccで、わずか6.5馬力(125ccで4.75馬力という説もある)だった。
ところで、この車のハンドルは、左の写真に見られるように、世界でもユニークな形をしている。似ているのは、ドイツのメッサーシュミットくらいのものだ。
たしかに、考えてみれば、ハンドルが丸い必要はなく、近年ではやや楕円型のハンドルも出てきたが、これほど極端な楕円のハンドルは珍しい。
馴れるのに時間がかかりそうだが、他方、走り出すときに、前輪がどちらを向いているか直感的に分かる、という利点もある。
また、1本スポークという意味では、フランスの初期のシトロエンとも似ている。
メーターは一つしかない。速度計だけだ。公称最高速度は60km/hだった。速度計と対象的に左側にあるのは、イグニションスイッチ(鍵穴)である。ハンドルの中央部に滑稽な形で運転者に向かって突きだしているのは、ライトのスイッチと、方向指示器のスイッチだろう。
この車の全長は295cm、幅は127cmである。かろうじて2人が横並びで座れる幅だ。
この車は1955年に発表され、23万5千円で翌1956年に発売されたが、わずか85台しか作られずに1957年に生産を終えてしまった。日本人は、こんな質素な車でさえ、まだ買えるだけの収入や余裕がなかったのであった。
(2005年に、愛知県愛知郡長久手町のトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは44mm相当、F2.8, 1/25s)
1-2:「フジキャビンの先生」、フランス・ルノー4CVのお尻
また、このルノーは日野自動車で国産化され、日本国内でも広く使われた。これが上の写真だ。しかし、当時は自家用車の需要はごく少なく、タクシー用途がほとんどであった。はじめはノックダウン方式で、フランスから輸入された部品を組立て、のちには部品も国産化された。
1-3:お尻の巨大さは、このタトラにはかないません。
フジキャビンもルノーも、リアエンジンを収めるための、愛嬌のあるお尻を持っていた。しかし、このチェコ製のタトラ・サルーン・モデル77aの巨大なお尻には脱帽するしかあるまい。
しかも、このお尻は、まるで飛行機の垂直尾翼のようなフィンまでついている。
このタトラは、1936年製。当時のタトラは、時代をはるかに先取りした、6人乗りのこの大型乗用車を作っていた。世界のどのメーカーよりも、すぐれた車であった。
それにしても、なんと巨大なエンジンフードだろう。積んであるエンジンも、上のルノーよりもずっと大きい空冷V形8気筒、3,380cc、出力70HPとはいえ、このフードは、ポルシェやフォルクスワーゲン・ビートルよりもずっと大きい。後輪のホイールアーチを覆うカバーといい、この巨大なフードといい、エアロダイナミックスを、当時の車としては極限まで考えたデザインだった。
このタトラの後部のエンジンフードには、上のルノーに倍加したくらい一面のルーバーがあり、真ん中の「垂直尾翼」と合わせると、まるで恐竜の背中のような光景になった。
じつは、SOHC (Single Over Head Cam)エンジン、バックボーンフレーム、スイングアクスル式の4輪独立懸架、空冷エンジン、リアエンジン方式、流線型の車体など、その後の世界の乗用車に引き継がれた革新的な技術は、みなタトラに発している。
このタトラ77aも、サスペンションは、前は横置きリーフスプリングの2段重ね、後ろはスイングアクスルと横置きリーフスプリングによる4輪独立懸架だった。日本車でいえば、すべての乗用車が4輪独立懸架になったのは、タトラから半世紀も後の、つい1980年代のことであった。
また、前部の中央には第三の前照灯があり、これは、ハンドルに連動して進行方向を照らす機構になっていた。これも時代をはるかに先取りしていた。かつてヘッドライトが3つある車はあったが、照射の向きは固定されていた。
右の写真に見られるように、フロントウインドは中央と、左右の3枚つなぎになっている。当時は曲面ガラスは作れなかったから、視界を広くするための工夫だった。
正確に言えば、このタトラ77aは、1934年に発表された、タトラ77が1935年に改良されたもので、77と77a合わせて250台あまりしか作られなかった。世界的な珍車である。
私が見たときには、この車はスクラップ寸前を「救出」されたばかりなのか、ツヤもなく、前のバンパーやワイパーアームもなく、レストアの途中のように見えた。
じつは、この時代は、過去、チェコがもっとも輝いた、しかし、ごく短い期間であった。
この時代のチェコは、17世紀の宗教戦争でカトリックのハプスブルグ家の勢力下に置かれてから3世紀、第一次世界大戦でハプスブルグ家のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊して、ようやく独立を果たして、当時の欧州でももっとも進んだ民主主義を実現した理想の国だったのである。当時のチェコの民主主義は、米国が自分の国益のために、中東や中南米に押しつける「民主主義」とはまったくちがう、本質的で良質のものだった。
そのときの指導者は初代チェコ大統領になったトマーシュ・ガリッグ・マサリクだった。バーナード・ショーは「もしもヨーロッパ連合を作るとしたら、その大統領としてはマサリクがなるべきだ」と主張したと言われている。
このころのチェコは精神も文化も輝いていた。そして、ヨーロッパ屈指の工業国にもなった。その「作品」のひとつが、この先進的なタトラだったのである。しかし、この輝きも、わずか20年で、ヒットラー率いるドイツにチェコが占領されて、地獄の日々をむかえることになってしまった。
なお、タトラは、乗用車を作るのはやめてしまったが、現在でも大型トラックではヨーロッパを代表するメーカーのひとつである。
(1994年1月に、ニュージーランド・ウェリントン郊外のサウスウォード自動車博物館で撮った。南半球最大の収集を誇っている自動車博物館である。撮影機材は、Olympus
OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、コダクロームKL200)
2-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その2・フライング・フェザー (1954年)
なんとも不器量なハンドルと、その軸(ステアリングポスト)の上に、これほど実用一点張りのスイッチはない、というほど簡素なホーンボタンが付いている。
3-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その3・コニー・グッピー
(1961年)
4-1:敗戦国日本の「庶民のための車」その4・ダイハツ・ミゼットMP5貨物車(1963年型)
4-2:ダイハツCM型。”法律の抜け道”ながら、当時の物流を支えた働き者。
上のダイハツ・ミゼットよりも大きな三輪トラック(オート三輪)も、ダイハツと東洋工業(現マツダ)の両社で作られて売られた。これは、ダイハツのCM型。丸ハンドル、二本ワイパー、3人乗りの1.25〜2.0トン積みのトラックだ。東洋工業も、同じサイズのトラックを作っていた。
この三輪トラックは、もちろん同じ積載量の四輪のトラックよりもずっと安いのが取り柄で、大いに普及して、1950年代から1960年代までの日本の物流を支える大事な輸送手段だった。
三輪トラックは、安いばかりではなく、前輪の切れ角が大きいので回転半径が小さく、小回りが利く。前輪の操舵装置も簡単でコストも安い。そのうえ、四輪車とちがって、法律の”抜け道”の有利さも生かせるトラックでもあった。
それは昭和20年代末期(1950年くらい)まで、エンジンの容積だけは小型車枠があったが、車体の幅や車体の長さについては、なんの制約もなかったことだった。
このため1950年代初頭以降、「ユーザーの要求に応える」という名目で、生産していた会社の競争が激化し、オート三輪の巨大化と長大化が進んだ。そして、ついには幅1.9m、荷台の長さは”13尺”(約3.9m=当時は荷台の長さを尺で表すのが普通だった)、車体の全長6m弱、という、もっと上位の4輪トラックを上回るようなオート三輪までが現われることになった。積載量も最大2トンに達した。
もちろん、三輪車は四輪車よりも安定が悪く、転覆しやすい。また、舗装道路が限られていた当時では、道路の穴をまたぐことが出来ないので、乗り心地も悪かった。しかし、安さと便利さには勝てなかったのである。
オート三輪がこのように際限なく巨大化したため、当時の運輸省は1955年に「小型自動車扱いのオート三輪は、現存するモデル以上の大きさにしてはならない」と歯止めを掛けた。つまりこの写真のオート三輪が最大サイズとして固定されたのであった。
なお、ダイハツ三輪車の形式は「CO型」が最大積載量2屯、「CM型」が最大積載量1.25〜1.5屯。それに続く数字は荷台長さで、「8」が8尺(2.4m)荷台、「10」が10尺(3.1m)荷台、「13」が13尺(3.9m)荷台。その後の記号は荷台形式で、「なし」が低床一方開き、「T」が三方開き、「TL」が低床三方開きだった。つまり写真のトラックはCM8ということになる。
しかし、上記のような安全性と、1965年にはそれまであった「三輪車運転免許」が廃止されたこと、そしてオート三輪の装備も競争で豪華になっていって値段的にも四輪トラックに近づいたことから、しだいにオート三輪は四輪のトラックに取って代わられるようになり、1972年にダイハツが、そして最後まで残った東洋工業も1974年に生産を中止した。
しかし、生産停止後30年以上経った今でも、オート三輪の不格好さを愛でるマニアも結構いる。
(2008年10月、長野県長門町で。ナンバーが着いた実動車だった。なお、オート三輪には、もともと前部にナンバープレートはない。撮影機材はPanasonic
Digital DMC-FZ20。ASA80。レンズは36mm相当、F4.0、1/400s)
4-3:小型三輪車が、1990年代にまだ輝いていました。中国の「庶民のための車」
5-1:日本の「庶民のための車」その5・日本としては名車だったスバル360
この軽量化のおかげで、当時の軽自動車の枠であった360ccのエンジンでも、当時のレベルとしては十分に走らせることができた。エンジンは空冷2気筒、エンジンの出力は16馬力/4600rpm、公称最高速度は83km/hであった。
この後数年にわたって、このスバル360をしのぐ性能や居住性を持つ車は出なかった。
*)2サイクルのエンジンだったから、回転を上げすぎても4サイクルエンジンのようにカムシャフトやバルブまわりから苦しそうな音が出る(バルブのサージングとかバウンシングと言われる現象)ことはなかったが、「回転数を限度まで上げると、突然、力が抜けてしまうのだよ」と浅田敏先生は話しておられた。
6-1:名車スバル360の改良を試みて無惨にも失敗したスバルR2
じつは、このスバルR2には「偉大な」先輩がいる。右の写真にあるイタリアのフィアット500
(Fiat 500)である。 1957年に発売され、1975年に生産中止になるまでに世界中で340万台も売れた、大変なベストセラーだった。
右の図(『CG』2008年11月号)のように、この車も、うまく”詰め合わせて”いるパッケージデザインである。上のスバル360よりも、後席が高いところに座るようになっている。前がよく見えて閉塞感がない代わりに、頭上の空間がない。
6-2:スバル360を追い落としたベストセラー、初代マツダキャロルも、やはり真似でした。
スバル360を追う他のメーカーのうち、マツダは「豪華さ」を売り物にした。軽量で質素、運動性能がいい戦闘機のようなスバル360に正面戦争を挑んでも、勝てないことがわかっていたことを踏まえての、いかにも日本人好みの戦術であった。それがマツダ・キャロル
Carol (初代、KPDA型)だった。
まず、デザインは、当時のマツダが好評を博していた右下のマツダ・R360クーペのデザインの流れを汲む、可愛くて洒落たデザインだった。このほか、トラックや三輪のトラックや乗用車も含めて、当時のマツダのデザインは品がよく、日本人好みのデザインで売っていた。
右下のマツダ・R360クーペは、スバル360を追撃すべく、安く、また日本人好みのデザインを売り物にして1960年に発売された。この車は、マツダが4輪乗用車市場にはじめて参入した車だ。当時としては30万円という、当時のスバル360より安い、破格の値段だった。
安くするために、車体そのものは当時の軽自動車の枠一杯のサイズだったが、車室はごく小型にして、大人2人と子供2人の4人乗りがやっとだった。また、サイドウィンドゥとリアウィンドゥにはガラスの代わりにアクリルが使われていた。軽量化のためだ。
30万円という価格のため、発売当初は非常に高い人気を得たが、大人4人が座れるスバル360に追いついて、追い越すことは無理だった。
このため、マツダが次に作ったのが大人4人が(辛うじて)座れるキャロルだったのである。R360クーペは1966年まで生産が続けられた。
キャロルは、上下を別の色で塗り分けるツートーンカラーも豪華さを演出した。
そして ドアは4つ。これで後部座席への出入りは格段に楽になった。軽自動車としては初めてだった。1962年にはじめてキャロルが発売されたときは2ドアだけだったが、その後すぐの翌年から4ドアモデルが発売された。
そして、全長3メートルという軽自動車の制約の中で、後部座席を少しでも広くするために、右下の写真のように、後部窓ガラスを「後ろ上がり」の、普通とは逆の傾斜にした。これで、普通の後ろ下がりの傾斜の後部窓ガラスのスバル360にくらべて、いくぶん広くなったように見える。車体の幅は、当時の軽自動車の枠一杯の1.3メートルだった。
マツダはこの後部窓をクリフカットと称した。クリフは断崖絶壁という意味だ。しかし、この逆傾斜の後部窓ガラスは、じつは、左下の英国フォード・アングリアの明確なパクリであった。真似をできるものは臆面もなく真似をする、のが、いまに至るまでの日本の工業の常套手段だ。

ずっと後年、21世紀になってからも、フランスのプジョー Peugeot 307が、天井いっぱいのガラス天窓を備えた車を出してヒットしたら、たちまち、ホンダ・エアーウェイブやトヨタが真似をし、2008年初夏になると、かつては独創性を売り物にしていたスバルまでが、エクシーガ
Exiga で追随した。
かつては、遅れた工業国が、先進工業国に追いつくための苦しまぎれの手段だったという弁解はあろう。しかし、それがいまだに続いているのは哀しい。
さて、そのせっかくの真似も、じつは、それほど後部差席を広くはしてくれなかった。右の写真を見て想像してもらえばわかるように、無理をして逆傾斜のガラスを置かなくても、ハッチバック(2ボックス)のほうが、むしろ車室を広くとれるからである。
スバル360でさえ、後部座席はキャロルにくらべて狭くはなく、しかも後部座席の後ろ、つまりエンジンの上に、結構深い荷物入れがあったほどである。
そのほか、マツダキャロルは、当時の軽自動車としてははじめての4気筒エンジンだった。容積は軽自動車の枠一杯だった360cc。スバル360は2気筒2サイクルの鋳鉄のシリンダーを持つエンジンだったが、マツダは水冷、4サイクルのアルミエンジンで、コストがかかっていた。しかし、2サイクルのスバルのエンジンにくらべて、いくぶん静かではあったものの、4サイクルであったためもあり、非力であった。
なお、両車とも、エンジンは車体後部にあって後輪を駆動する、RR(リアエンジン、リアドライブ)だった。これは当時としては、車体のわりに車室を広くとれるデザインだった。
左のR360クーペも、RRだった。ただしこちらは2気筒で、強制空冷 76° V型エンジンだった。 OHV 4ストローク 356 cc、圧縮比 8.0で出力は16
ps / 5300 rpmだった。
その後、小型車では世界を席巻したFF(フロントエンジン、フロントドライブ)は、必須の部品である等速ジョイントに信頼性があってコストの安いものがなく、実用にはなっていなかったのである。
この、ややごてごてした、しかし一見可愛いキャロルは、ベストセラーになり、スバル360を蹴落とした。
どんな小さい車にも豪華さを求める日本人の好みを熟知していたマツダの勝利であった。そして、悪あがきした富士重工が作ったのがスバルR2だったが、これはさんざんの失敗作に終わった。
左が、マツダキャロルの「先生」だった、英国フォードの大衆車、フォード・アングリア
105E。一見似ていないようだが、この車の後部窓ガラスは、キャロルと同じように、というよりキャロルが真似したとおり、逆の傾斜になっている。
当時は、雨が当たらないので後方視界がいいともいわれた。なお、アングリアとは、英国のラテン語名である。
なお、アングリアは1939-1967の間に4世代の車が作られた。この105Eは1959-1967に作られたアングリアの最終モデルだ。
後部窓の逆傾斜だけでもみっともないのに、この車の目であるヘッドライトは、まるで蛙の目だ。横に引き伸ばされたラジエーターグリルも、しまりがない口を思わせる。
たぶん、このデザインは、1940年代後半の米国のスチュードベーカーを真似したかったのであろう。米国車としては珍しく、ごてごてした飾りが少なく、伸びやかなデザインだったスチュードベーカーをモデルにしたのにちがいない。
スチュードベーカーは第二次大戦直後の1947年に レイモンド・ローウィ(Raymond Loewy 1893-1986)のデザインになる新型モデルを発表して売り上げを伸ばした。
ローウィは工業デザイナーの草分けで、日本の煙草「ピース」もデザインした。当時、日本人の常識から言えば高額なデザイン料が話題になったものだ。
このローウィのスチュードベーカーは「どちらに向かって走っているのかわからない」などと評判がたつほど斬新で、世界的にもすぐれたデザインだった。彼は次のフルモデルチェンジに当たる1953年モデルもデザインしたが、その後、関係を絶った。それとともに、ビッグスリーの新車開発と値下げ競争によってスチュードベーカーはジリ貧の一途をたどることになる。
ところで、スチュードベーカーのデザインは、米国のフルサイズの大型乗用車にあって、はじめて映えるデザインだった。それを、このアングリアのような小型車に応用することは、所詮、無理だったのである。小型車には小型車のデザインがあり、それを無視した英国フォードのこのデザインには、本来持つべき、伸びやかさが感じられなくなってしまっている。
なお、このアングリア105Eのエンジンは 997 cc、4サイクル直列4気筒。ホイールベースは2311 mm、全長は3912 mm、全幅は1473 mm、全高は1448
mm、重さは737 kgだった。日本でいえば5ナンバーの小型車である。
しかし、人間とはおろかなものだ。車はもちろん、鳩までも競争の道具にしてしまう。このアングリアも、非力なエンジンながら、スチュードベーカー「譲り」の空力に助けられて、7日7晩走り続けて時速134kmという(1000cc以下のエンジンのクラスでの)世界記録を1962年に、フランス・パリ南郊にあるMontlheryサーキットでうち立てた。車の歴史も、ある意味ではおろかな、競争の歴史であった。
(上のキャロルの写真は2005年6月。東京都清瀬市の加藤自動車で。撮影機材はPanasonic
DMC-FZ20。レンズは53mm相当、F2.8, 1/125s、中のキャロルとR360の写真は2005年にトヨタ自動車博物館で。撮影機材はPanasonic
DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F2.8, 1/5s。下の写真は1995年夏、英国ロンドンの北郊カムデンロックのフリーマーケットで。撮影機材はOlympus
OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ASA64)
7-1:貧しかった時代を支えたボンネットバス(いすゞBX341、1950年代)
焦土から日本が立ち上がったのを支えたの乗り物には、バスもあった。自家用車などは夢の夢だった時代に、人々の輸送をもっぱら担ったのは、このようなバスだった。
当時の日本には4つのバスのメーカーがあり、 なかでも日野自動車のバスは、もっとも鼻が高くて高貴な顔をしていたが、いすゞのバスのほうが売れていた。また、最後までボンネットバスを作っていたのもいすゞで、最終型は1970年まで作られていた。しかし、1962年からは、いすゞバス(とトラック、BXDシリーズ)は、アメリカナイズされた、なんとも品のない顔つきになってしまった。
この種のボンネットバス(車体の前部にエンジンがあり、それをボンネットでカバーしているバス)は、車体の長さの割に客を乗せる客室の長さが短くなってしまう。その後のバスがリアエンジン(エンジンが車体後部にある)やアンダーフロア(車体の下部にエンジンを詰め込んである)に変わっていったのは、そういった理由であった。
当時の日本の道のほとんどは、舗装していなかった。土ホコリを舞いあげながら走る車のエンジンにとっては、エンジンの燃焼用にエンジンのシリンダーに取り込む空気にホコリが混じるのは大問題だった。土ホコリは、つまり、細かい岩でもある。エンジンの内部をすり減らしてしまう。
もちろん、その防止のために、エアクリーナーという、空気中のホコリを取り除く濾紙(や、あるいは油の中を空気を潜らせるオイル・バスという方式の装置)がついていたが、エンジンが一回転するごとに6リットルも空気を吸い込むものだから、ホコリが多いと、すぐに目詰まりしてしまう問題が大きかった。
ところで、このいすゞのバスは全長8.3メートル、幅は2.4メートル、車体重量は5.5トンである。エンジンはディーゼル。途方もなく長いボンネットミラーを付けている。これは運輸省の「ご指導」で、現在のような、あるいは下のメルセデスのようなバックミラーが許されていなかったせいである。
ボンネットの中央前端にあるのは、ラジエターキャップだ。当時の車にとっては、オーバーヒートは日常茶飯事であり、エンジンの冷却をつかさどるラジエターの水の管理は、運転者にとって、もっとも必要で緊急度の高いものだった。エンジンフードを開けなくても、ラジエターキャップだけは、しょっちゅう開け閉めして、中の状態を見たり、水を補給したりしなければならなかったのである。
ところで、バンパー中央にある小さな穴は、セルモーターでエンジンがかからなかった場合、クランク棒を差し込んでエンジンをまわして、エンジンをかけるための穴である。
小さなエンジンならともかく、バスの大きなエンジンを手でまわすのは、大変な重労働だったにちがいない。かつて私が乗っていた1962年型の日産ブルーバードP312型や1966年型日野コンテッサ1300にも、セルモーターではエンジンがかからないときのために、このクランク穴が常備されていた。
エンジンがかかったとたんに、うまくクランクを外さないと、クランクで二の腕の骨を折ることがある。日本でも外科医の間では、運転手特有のこの骨折の患者が多くて、有名になっていた。
このバスは福山駅から鞆の浦へ行く定期観光バスに使われている。その他、レトロブームとやらで日本各地で古いボンネットバスが観光用に走っているが、そのほとんどはこれよりも後期の、つまり顔つきに品がなくなった時代のいすゞのBXD型のバスだ。
7-2:貧しかった時代を支えた全輪駆動のボンネットバス(いすゞTSD40、1950年代)
もっと悪い道のためには、写真に見られる全輪駆動のバスもあった。これもいすゞで、トラックにも同じ顔つきをしたものがあった。上のBX系のバスに比べて、いかつい顔つきをしている。
じつはこの顔つきは、戦後、日本にたくさん入ってきた米軍の軍用トラックの顔に似ている。カーキ色に塗られた米軍の車輌は、占領下の日本を我が物顔に走り回っていた。
このバスは悪路や不整地用に、最低地上高が高く、腰高である。また、小回りを利かせるために、驚くほどホイールベース(前後車軸間の距離)が短い。ほとんど大型乗用車なみのホイールベースである。
このバスは高知駅から桂浜や五台山へ行く季節定期観光バスに使われている。土佐電鉄の系列会社が運航している。リーフ板バネだけのサスペンションで、ショックアブソーバーもないらしく、ホイールベースが短いことと相まって、恐ろしく乗り心地が悪い。
前のフェンダーの上に付いているオレンジ色の方向指示器は、当時にはなく、後付である。当時の方向指示器は腕木式で、運転台の三角窓の横についていて、今でも作動している。
いすゞのこれらのボンネットバスが1970年代まで製造されていたのは、当時、日本中にあった舗装していなかった道を走るためにすぐれていたからだ。
リアエンジンバスは、どうしてもエンジンの近くから空気を取り入れるために、自分で舞いあげた土ホコリを吸い込んでしまう。つまり、日本の道が十分舗装されるまで、リアエンジンバスは出番がなかったのである。
もちろん、その防止のために、エアクリーナーという、空気中のホコリを取り除く濾紙(や、あるいは油の中を空気を潜らせるオイル・バスという方式の装置)がついていたが、エンジンが一回転するごとに6リットルも空気を吸い込むものだから、ホコリが多いと、すぐに目詰まりしてしまう問題が大きかった。
じつは、このために、旧ソ連のリアエンジンバスは、空気を天井から取り入れるという苦肉の策をとったものもあった。日本でも試験的に作った「飛鳥」という飛行機が、滑走中の土煙やゴミをなるべく吸い込まないために主翼の上にエンジンを置いた不格好な形だったことがあるが、このソ連のバスもそれに匹敵する。
なお、「飛鳥」は当時の運輸省主導型の低騒音STOL(短距離離着陸)実験機だったが、1985年に初飛行して以来、わずか数年で計画が打ちきりになった。
じつは、この「飛鳥」には先輩がいる。。1977年に初飛行した旧ソ連のアントノフ72とアントノフ74や、もっと前には1971年にドイツで作られたVFW614という双発ジェット旅客機だ(右)。
ヨーロッパでも舗装されていない滑走路が多かった当時としては、やむをえない設計だった。アントノフや飛鳥は上翼式で、その主翼にエンジンが「載っている」形だったが、このCFW614は、低翼式の主翼の上にエンジンを突っ立てる、というドイツ人らしい極端さで突っ走る設計だった。エンジンを支えるパイロンも頑丈で重いものにしなければならず、それ以上に不格好であった
外を見たい乗客にも、なんとも迷惑なエンジンだった(左下の写真)。エンジンしか見えない窓に座った客は、うるさいし、なんとも不愉快な経験をしたにちがいない。また、非常の時にも、他の飛行機と違って、機内から主翼の上に逃げ出しにくい欠点もあった。しかし、背に腹は替えられなかったのである。
なお、このVFW614は40-44人乗り。幅は22メートル、長さは21メートル。巡航速度は700km/h、航続距離1200km、最大離陸重量は20トンという中短距離旅客機だった。
なお、このように、不格好に主翼の上にエンジンを積まざるを得ない飛行機として、水上から離発着する飛行艇もある。金属のサビには大敵の海水をなるべく吸い込まないように、こうなっている。
たとえば1998年に初飛行した、ロシアの最新鋭飛行艇ベリエフBe-200がある。全長: 32 m、全幅: 33 m、航続距離: 3850 km、乗客:
64(エコノミー)、32(ビジネス)という飛行艇としては大型のものだが、大きなエンジンを二つ、主翼の上に背負っている滑稽な姿は、一度見たら忘れられないものだ。
(いすゞBXのバスは2004年に、広島県福山駅前で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは113mm相当、F3.7, 1/100s。いすゞTSDのバスは2005年に、高知駅前で。撮影機材はPanasonic
DMC-FZ20。レンズは70mm相当、F4.6, 1/500s。ドイツVFWのジェット機は2004年8月にドイツ・ブレーメン空港で。撮影機材はPanasonic
DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F4.0, 1/400s。VFWのジェットエンジンは。レンズは230mm相当、F4.0, 1/320s)
7-3:同じく敗戦国だったドイツの戦後を支えたメルセデスの傑作(ボンネットトラックとボンネットバス。1950年代-)
7-4:そのメルセデスのボンネットトラックも、イランでは飾り立てられてしまいます
7-5:そのメルセデス以前のトラック(アルゼンチンの裏町で)
7-6:上の7−1のいすゞ・BXボンネットバスの質素な運転台
8-1:本田宗一郎のアイデア倒れ。消費者をモルモットにしたホンダの新鋭の車、ホンダ1300(写真はクーペ9)。
日本人が車を普通に買えるようになると同時に、それまでは見向きもされなくかった輸出先でも日本の車がようやく売れて輸出に希望が見えてきたのが1960年代の終わりだった。
上の6-1の軽自動車スバルR2が発売されたのが1969年、それとほぼ同時に発売になったのが、このホンダ1300だった。写真は当初発売されたセダンから1年遅れで発売になったクーペである。
デザインは米国ポンティアックの真似のフロントグリルだったが、当時としては未来から来た車のようで、また、メカニズムも画期的な車だった。 ホンダが総力をあげて国際的に通用させたい車だったはずだ。
私が持っている当時のホンダ1300クーペのカタログは総カラーグラビアで45cm x 23.5cmという、私が持っている内外の自動車のカタログの中では最大のもので、28頁ある。日本国内向けのカタログだが、米国とカナダの各地を背景にこの車を配した、世界中で売りたいという当時のホンダの意気込みが伝わってくるカタログだ。
この車の「売り」は、二輪車メーカーから軽自動車メーカーへと一歩ずつ階段を登ってきたホンダとしてははじめての小型乗用車で、前輪駆動、二重空冷エンジンといった最先端の技術であった。
しかし、じつは、この車は技術的には、なんとも未熟なものだった。いや、正直に書けば、むしろ危険なものといえた。
当時、前輪駆動の乗用車としては1967年に発売されていたスバル1000があり、水平対向、アルミシリンダーの4気筒水冷エンジン、等速ジョイント、インボードブレーキ、デュアルラジエターなど、先進的な機構を備えていた名車であった。(そのスバル1000は、のちにスバル1100、やがてスバル1300になった。私はスバル1000と、1300を所有していたことがある)。
スバル1000は、 当時の世界のほかの車に負けないレベルの車だったし、のちにイタリアのアルファロメオが発売したアルファスッド(Alfasud)が真似をしたほどの車だった。なお、アルファスッドは1971年から1989年まで作られたロングセラーになった。
そのスバル1000を追う形で開発された、このホンダ1300の操縦性は、前輪駆動車の悪い面をそのまま露呈してしまうものだった。
ハンドルを切ってもその通り曲がらない、強い「アンダーステア」、そして、その状態でアクセルペダルを放すと、突然、旋回方向に制御不能なくらいに巻き込む「タックイン」、そして、それと同時に、旋回する内側の後輪が空中に浮き上がって三輪走行になってしまう「ジャッキアップ」、といった危険な性質を持ったまま、発売されたのであった。
右の図はこのホンダ1300クーペのカタログにある、エンジンとサスペンションの図だ。とくに後輪がジャッキアップしやすい、貧弱な設計になっている。
じつは、このホンダ1300は1968年に華々しく発表されたモーターショー直後に発売されることになっていたが、実際の発売は1年近く遅れた。これは、この悪癖を手直しするための遅れだといわれている。
しかし、発売後の新車をテストしていた、自動車雑誌『カーグラフィック』(現在の『CG』)の編集長は、テスト中に車が転覆し、車内で重傷を負った。悪癖の手直しは不十分、あるいは不可能だったのである。各種の車に乗り慣れていたはずの自動車雑誌の編集長でさえ、転倒するとは思ってもいなかった場面で転倒してしまったのであろう。
その後1970年に、それまでのセダンのほかに、写真のクーペが追加された。ちなみに、この1300クーペの大型カタログには「機能的、性能的に高度で安全性にもすぐれ、さらに美的、感覚的にも極めて洗練されている」と麗々しく謳っている。ホンダに限らないが、宣伝文句というのは、そのまま受けとってはいけないものなのである。
もうひとつの技術的な「売り」であった二重空冷エンジンは、DDACと名付けられていた。ホンダの造語、Duo Dyna Air Cooling の略だという。
普通の水冷エンジンだとシリンダーの周囲に冷却水を流す「ウォータージャケット」に、強制的にファンからの空気を送り込んで冷やす仕組みで、これは、ホンダを率いてきた技術者社長・本田宗一郎氏のアイデアであった。水冷エンジンも最終的には空気で冷やすのなら、最初から空気で冷やせばいい、という発想であった。
しかし、これは、まったくのアイデア倒れだった。
エンジンを十分冷やさないと、エンジンは焼き付いてしまう、エンジンにとっては致命的なことになる。
安定して冷やすためには、アルミ製で二重になったエンジンは、水冷のものよりも、もっと重いものになってしまったうえに、冷却水の消音効果もなかった。つまり、アルミを大量に使って、コストも高く、水冷よりも重くてうるさいエンジンしかできなかったのだ。そして、このエンジンの重さが、上記の操縦性の危険さを増幅したのであった。
ホンダのほかの車と同じように、カタログ上でだけは、他車よりも馬力があった。たとえば、このホンダ1300(セダンの99)は1300ccのエンジンに4つのキャブレターをつけて115馬力(7500回転=rpmで)を出すと公称されていた。馬力の数値そのものは、当時としては1300ccエンジンの枠を超え、2000ccエンジンに迫るものだった。しかし、この馬力は、もっぱら回転数を上げて稼ぐ、いわば数字だけの馬力だった。
実際には、トルクの山がピーキーで、最大トルクは5000回転=rpmのところでしか発揮できず、低中速のトルクが痩せていて、レーシング用のオートバイのエンジンを車に載せたような、まったく使いにくいエンジンであった。さすがにホンダも、少し使いやすくするために、直後に110馬力に落として中低速トルクを少し上げたが、まだまだ、使いにくいエンジンであった。シングルキャブレターのモデル(ホンダ1300クーペ7やセダンの77)も同じように使いにくいエンジンだった。
なお、1970年にはこの”高性能”エンジンは発売をやめてしまった。あまりにも使いにくかったからである。
そしてこの車そのものも、結局、1972 年に販売中止になった。つまり、わずか3年で、寿命が尽きたのである。
新機軸の高性能エンジン、格好がよくて速い車というカタログやセールスに釣られtて買った客は、こうしてモルモットにさせられてのである。
しかし、ホンダが客をモルモットにしたのは、これだけではない。
やはり華々しく売り出したホンダ最初の前輪駆動の軽自動車「ホンダN360」も、スタイルがよく、エンジンの公称馬力は他車よりも強く、車内は広かったが、普通の技量の運転者には危険な乗り物であった。下り坂でアクセルペダルを放すと、蛇行して操縦不能になってしまうのである。
日本中で、死者も多数、出たといわれている。当時あった「日本自動車ユーザーユニオン」という自動車の消費者団体がこれを問題にして訴訟を起こし、また当時の朝日新聞はじめ各新聞は挙げてこの消費者運動を支援する記事を掲載した。「ユーザーユニオン」は、当時米国で欠陥車問題を鋭く追及していたラルフ・ネーダーに影響を受けた、先鋭的な消費者団体であった。
しかし、結局は、ユーザーユニオンは、複数の自動車メーカーと、そして国や検察につぶされてしまった。輸出立国のための国策の策動であった。和解という”罠”に誘い込んで、恐喝罪で立件する、という筋書きであったといわれている。
なお、肩入れしていた各新聞は、あっというまに口をぬぐって、なにごともなかったように装った。この「N360」は1967年に発売されていたが、この悪評のために1972年に販売を中止した。
(写真は2009年5月。東京都下で。ホンダ1300クーペ。撮影機材はRicoh Caplio R1。レンズは28mm相当、F3.3, 1/164s。なお、ボンネット両側にあるミラーは、もともとの平面型のものではなくて砲弾型に替えられている。
塗装が剥げて痛々しい姿だが、これからレストアされるのであろうか。もしレストアされて走れるようになるのなら、運転にはよほど注意しなければなるまい)
島村英紀が撮った海底地震計の現場
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