島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その7:その他編

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(まだ完成途上です)


1−1:空気抵抗を考えなくていい船は、どんな不器量でもいいのです。ノルウェーのフィヨルドのフェリー。

飛行機はもちろん、自動車でも、空気抵抗の少ない形にすることが、設計するときの大事な要素である。最大速度だけではなく、普通の速さでも燃費に大きく影響するのが空気抵抗だからである。

しかし、船はちがう。よほどの高速船ならともかく、8ノット(秒速約4m、つまり自転車くらいの速さ)から、せいぜいその倍くらいまでの小型船舶にとっては、空気抵抗は、それほど大きな問題ではない。

他方、問題になるのが、いかにたくさんの荷物や人を運べるか、ということだ。


かくて、なるべくたくさんの車やトラックを載せたい、というときには、写真のような滑稽な形になることもいとわない。いや、ブリッジ(船橋、上部の操縦室)から、すぐ前がよく見えることは、船舶の操縦にとって、とても大事なことなのである。頭でっかちの、寸詰まりの、という”容貌”さえ気にしなければ、これはこれで、合目的的な乗り物なのである。

いや、大事なことを忘れていた。

海上を走る船にとって、もっとも大事なことは、転覆しないことだ。波や風で転覆してしまうことは、もっとも恐れなればならない設計の要素である。

しかし、幸い、ここはノルウェーのフィヨルド。写真のように波はほとんどなく、風もときには強く吹くが、その風が波を大きくすることもなく、また突然風向きが変わることもない。外洋では危ない形でも、内海ならば、これでいいのである。

(1987年、ノルウェー西部、同国最長のソグネフィヨルド(長さ220km)の奥で。撮影機材はOlympus OM1、レンズはZuiko 100mm F2.8。フィルムはコダクロームKR64)


1-2:「乗っている人の顔が大きく見える「乗り物」、英国シェットランド諸島の超小型漁船

窓いっぱいに顔が拡がって、まるで滑稽な姿になるといえば、このあまりにも小型の漁船も同じだ。

屋根に乗っている浮き輪と船体の大きさを比べてみてほしい。何とも小さいこの船に、大男でしかも肥満体が多いシェットランド諸島の男が乗っている姿を想像できるだろうか。顔は窓いっぱいになり、男は、船の床に膝をついているにちがいない。

シェットランド諸島は英国の東北に浮いている島だ。「汽車の駅では、ノルウェーの西海岸にあるベルゲンがいちばん近い」と地元で言われている離れ島で、歴史的にもノルウェーとの関係が深く、決して豊かではない。

船が小さいのも、そのせいだろう。この船で外洋の荒れた海へ乗り出すのは容易ではあるまい。この近くの海は船の墓場と言われている。

海を隔てた「隣国」ノルウェーでは、成人の男の死亡原因の第1位は小型船舶からの転落事故だという。シェットランド諸島でもおなじようなものだろう。

英国人がはじめて南極の組織的な探検をしたときに、南シェットランド諸島を発見して「シェットランド諸島」と名付けたのは、このシェットランド諸島が寂しい北の海に浮いている孤島だったからだ。海岸がところによって非常に険しいこともよく似ている。

このシェットランド諸島で最大の町は港町のラーウィック。写真はその漁港で1995年夏に撮った。アイスランドと同じく、ツノメドリが多い島だ。また同じくアイスランドと同じく、大西洋を南北に大旅行をくり返す、渡り鳥の天国でもある。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)


1-3:あまりにも前後対称な小型漁船。これはこれで”美学”なのでしょうか、ノルウェー西岸の小型漁船

近代的な大型の船はともかく、小型の船は、それぞれの国や地方で作られつづけてきた伝統的な”工芸品”のようなものだ。

手前の下に見える赤い屋根の船は、ノルウェーの沿岸とフィヨルド内の漁業に従事している木造の小型船である。

面白いほど、前後対称に絞り込まれている船体だ。前は当たり前として、後ろをこのように絞り込まなければならない必然性はない。

それどころか、艫(とも)づけ(船を岸壁に直角に、船尾を岸壁に着ける方法。限られた面積の岸壁に多くの船を繋ぐときによく使われる)のときには、とても荷物が積みにくい。

たぶん、この小型船を作った地元の造船所は、板を曲げる”芸”を披露したくて、船の後部の板も、見事に曲げて見せたのであろう。そして、塗装も洒落たツートンカラーである。

(1989年8月、ノルウェー西岸、ベルゲンの西北方の大西洋岸で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)


1-4:天空高く、伸びやかに釣り竿をのばした漁船。フランス大西洋岸の小型漁船

小さな漁船だからといって、ちまちました姿のものばかりではない。この漁船のように、ごく小さくても、伸びやかに羽根を伸ばした形の船もある。

フランスの大西洋岸にコンカルノーという古くて美しい都市がある。ここの港に繋がれていたこの漁船は、外洋でトローリングをして、大物の魚を釣り上げるためのものだ。船の両側に途方もなく長い釣り竿を突き出し、そこから長大な釣り糸を曳いて、大物を狙うのである。

これは漁業というよりは狩猟に近い。小魚は相手にせず、大型の魚を少数だけ獲ってくるのである。

この長大な釣り竿は、めったなことではたたまない。入出港のときにも、写真のように張り出したままだ。このため、停泊する場所は、おのずと限られてしまって、ほかの漁船から離れたところに、ぽつんと繋留することになる。

しかし、猟師は孤独でいいのである。

(1994年8月、フランス西岸、コンカルノーの港で。撮影機材はOlympus OM4Ti、レンズは Cosina Zoom 75 - 200 mm f4.5。フィルムはコダクロームPKL。ISO (ASA) 200)


1-5:ノルウェーの小型漁船は伝統的に”ちんちくりん”の形が好きなようです

せいぜい二人くらいしか乗れない、ごく小型の漁船がノルウェー西岸には多くいる。

もちろんこの大きさの船では、外洋遠くまで出ることは不可能だが、フィヨルドが四通八達していて、海岸線にも島がたくさんあるノルウェーの大西洋岸では、それほど外洋まで行かなくても、沿岸漁業がなり立っているのである。

大きな船を、そのまま縮小コピーしたような、可愛らしい形をしている。しかしブリッジ(船橋、操舵室のこと)には、頭がつっかえそうな背の高いノルウェー人なら、二人が入り込むのがやっとだ。

(1996年5月、ノルウェー大西洋岸中部、ボードーの港で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Cosina Zoom 75 - 200 mm f4.5。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)


1-6:ずいぶん頭でっかちで不安定に見えますが、沿岸だけでエビを捕っている漁船はこれでいいのです。ドイツ北部の小エビ・トロール漁船

ドイツの領海は狭く、またいちばん深いところでも、水深は60mしかない。しかし、遠浅なので、エビのトロール漁がさかんである。

沿岸漁業だから、船はごく小さい。ここには大(右端)、中、小の三つが並んでいるが、左端のいちばん小さいのものでも、高いマストやデリックと、大きなトロール網を高く掲げている。

この小さな船のブリッジ(船橋)は、上のノルウェーの小型船のものよりも、さらに小さい。大男のドイツ人二人が乗ったら、ぎゅうぎゅうである。

これでは重心もずいぶん上がってしまうだろう。しかし、海が荒れたときは、そもそも漁に出ないから、これでもいいのである。

(2004年8月、ドイツ北部の港、クックスハーフェンで。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10、レンズは 99mm相当。F4.6, 1/400s, ISO (ASA) 50)

 


1-7:船の基本は、これに発しているのです。丸木舟とアウトリガー(1971年、パプアニューギニア、ラバウルで)

人類が初めて船を造ったとき、それはこの船のようなものであったにちがいない。

つまり、森で太い木を見つけ、それをくりぬいて丸木舟を作る。

そして、それが転びやすいときには、転ばないように横に足を出す。アウトリガーである。

アウトリガーは偉大な発明だった。舟を安定させるばかりではなく、トラックの荷台のように、荷物台になったり、客席になることさえもあるからだ。 また、舟の水流抵抗も、丸木舟と細いアウトリガーだけだから、ごく小さい。

外地に船が入るとき、それがものを買ってくれそうな船であるときは、船が岸壁に着くよりも速く、このような物売りの舟が集まってくる。土産物、果物、たべもの。売るものはさまざまだ。船乗りの方も心得たもので、高い甲板から、籠のような入れ物にロープをつけて、水面の小舟まで下ろして、ものや金のやりとりをするのである。

多くの場合、言葉は通じないが、相手は売ろうとしていて、こちらは買おうとしている。そのときには言葉は不要なのである。

太い丸太をこのように見事にくりぬき、外形も抵抗の少ない形に整えるのは、なかなかの業だ。舳先のかたちは、ほとんどレガッタのボートの舳先のようだ。

(1971年2月。パプアニューギニア・ラバウル市内で。
撮影機材はOlympusPen-FVレンズは.Zuiko 25mm f4。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した)


1-8:伝統的な舟がいきなり「近代化」されると、こうなります(タイの先住民族の漁船。2009年、タイ・プーケット島南端のラワイで)

インド洋の東端、タイやマレーシアの沿岸にあるアンダマン海には、「海のジプシー」といわれる先住民族が住んでいる。モーケン族である。

モーケン族は、主として沿岸漁業で生計を立てている。とれるのは、アジ、イカ、ロブスターなどだ。なかでもアジは、長さ30cm以上もある大きなものが釣れる。また世界的な観光地、プーケット島の場合には、観光客を沖合の島に運ぶ通船や手芸細工の土産物などでも収入を得ているが、いずれにせよ、収入は高くはない。

この漁船は、船首の竜骨の先端部分が高く、長く前方に突き出しているのが特徴だ。命を託し、また生計を立てる手段でもある船だけに、日本を含めて東南アジアの寺社の建築のような、湾曲した赤い梁を誇示しているのであろうか。ごてごてした船首の飾りを競っていた昔の西洋の船のものよりも、よほど潔く、美しい船首である。

また、この船首は静かな熱帯の海だと、この先端部分が、いちばん遠くからよく見えるのが取り柄なのであろう。

じつは、もともとのモーケン族の舟は、それぞれの小舟に一家が乗った小舟の集団が、あちこちの海を渡り歩く生活をしていた。その舟は、大きさや形はこの写真の舟に似て、それに藁葺きの屋根をつけたものだった。

しかし、この船は著しく「近代化」された。船尾にカバーを掛けられているのは、いすすエルフなど、日本製のトラックの中古エンジンなのだ。

このトラックのエンジンの出力軸からは、写真に見られるように、長さ3mを超える長大なプロペラシャフトが出ていて、この先に、プロペラ(スクリュー)がつけられている。写真には直径50cmほどあるプロペラが写っている。

プロペラシャフがあまりに長いために、停泊時には、写真のように、前後逆さまにして収納している。航行時には、もちろん、この長いプロペラシャフトとスクリューを舟の後方に突き出して、航走する。

つまり、日本から輸入されたポンコツ車のエンジンを、そのまま、こうやって漁船のエンジンに使っている。じつは、これは水路が多いバンコック市内の水上交通にも使われている仕掛けなのである。

この、バンコックの
市民の足であるボートは、その長いプロペラシャフトの形から「ロングテールボート」と呼ばれている。エンジンには、マフラー(消音器)がないので、すさまじい音をたてて走る。

また、本来は80℃くらいの水温で冷却する水冷エンジンを、いきなり海水で冷やしているために、エンジンの性能(エンジンは熱膨張を考えて、シリンダーやピストンの形や大きさが設計されている。たとえば、ピストンは厳密にいえば真円ではなく、熱膨張を考えてわずかな楕円型に作られている)や寿命を無視した使い方でもある。 このため、どんなに大事に使っても2年くらいが限度だといわれている。

トラックのエンジンゆえ燃料消費は決して少なくないが、このエンジンのおかげで、モーターボートなみの速度が出る。そして、もちろん、モーターボートよりもはるかに安く作れる船なのである。

水揚げされた魚は、右の写真のように、海岸沿いで売られている。漁獲量の少なさと、不安定さから、これらの魚は流通機構に乗って、遠くの都市まで運ばれて金を稼ぐことはない。 それもあって、モーケンの暮らしは、まだ貧しいままだ。

海岸にあるモーケンの集落には、たった一軒のガソリンスタンドがある。アイスランドのガソリンスタンドと同じように、ここには、ガソリンスタンドに必要な「すべて」がある。いや、こちらのほうが、必要最小限のスタンドと言えるだろう。

つまり、ガソリンのタンクである200リットル入りのドラム缶、ガソリンを計量するガラスのシリンダー、そして、ガソリンを汲み上げて顧客に供給する手回しのポンプである。

また、後ろに見られるように、日本のガソリンスタンドと同じように、エンジンオイルやグリースや、それらを交換するための道具類も、ちゃんとそろっている。

そして、売っているガソリンも、ちゃんと二種。(私にはタイ語は読めないが)91オクタンのレギュラーガソリンと上記トラックエンジンの舟用の軽油にちがいない。

もちろん、ここで供給するのは、モーケンの集落にある小型のバイク類がおもで、燃料タンクの容量が100リットル以上もあるようなトラックは想定していない。

(2009年5月。タイ南部、タイ最大の島、プーケット島ラワイで


1-9:船をよく知っていないとこの写真のおかしさは分からないかもしれませんが・・。頭でっかちの不安定な観測船。『東海大学丸二世』(1974年、静岡県清水港で)

上の1-1のフィヨルドのフェリーは、荒れた外洋に出ることをまったく想定していない。

しかし、この船、『東海大学丸二世』 は、ハワイに行ったことも何度もあるし、荒れるので有名な日本海でも何度もの観測航海をこなしている船だ。

そして、よく見るとわかるが、この船は船体に比べて、船橋部分が異様に大きくて高い。つまり、本来、もっとずっと長い船を造るつもりが、予算の関係で、船体だけを短くしてしまった、寸詰まりの船なのである。

この船を操縦するのは、なかなかたいへんなことであった。重心が高く、頭が重いから安定性に欠ける。悪くすれば、転覆しかねない船だったのである。 また、乗っていても、船の”頭”が重いために、周期が長い、振り回されるような不思議な揺れを感じる。船酔いしやすい船なのである。、

この船は1968年 1月に就航し、私たちは海底地震計の観測のために、何度も使わせてもらった。当時の船長は佐藤孫七さんという名船長で、私は「海」について、そして海洋観測の実地について、これも多くのことを教えていただいた。

この船は1993年に引退し、現在は陸上に揚げられて、清水市にある
東海大学の海洋・自然史博物館の前に展示されている。

「海洋国家・日本」などというスローガンがさかんに叫ばれていながら、日本の海洋観測の基礎をになっていた観測船は、このようなものだった。

一方、隣国ソ連は、右の写真のような5000トンクラスの大型海洋観測船を何隻も擁し、太平洋だけではなく、大西洋も、黒海も、世界の多くの海を走り回っていた。上の船と比べて、なんとのびやかな形をしているのだろう。これなら、海が荒れても、恐れることはない。

じつは、ドイツ(かつての西ドイツ)でも、国の領海でいちばん深いところは60メートルしかない(つまり、ドイツ沿岸の大陸棚だけ)というのに、大型の海洋観測船を何隻も運航していて、そのうちひとつ『ゾンネ』は、太平洋だけを走りまわっていたほどだ。

この船は『ドミトリー・メンデレーフ号』。1974年9月、私たちとの共同海底地震観測のために、函館まで来て、私たちの仲間である日本人科学者(同時大学院生で、のちに国立極地研究所教授になった澁谷和雄さんと、のちに茨城大学教授になった宮下芳さん)を載せて日本海の観測に向かった。

私たちとの最初の共同海底地震観測をした「ビチャージ号」の兄貴分の船である。

日本では、長い間、東京大学海洋研究所の『白鳳丸』(3200トン)が最大の海洋観測船だったが、その後、ある官庁の外郭団体が、大きな船をいくつか持つようになった。しかし、こちらは、それはそれで、いろいろな問題があるのである。

(1974年、上は静岡県清水港、下は北海道函館港で。、撮影機材はOlympus OM1、レンズはZuiko 28mm F3.5。フィルムはコダクロームKR64)


2-1:第二次大戦直後のスウェーデン車ボルボは、じつは米国車のものまねでした。

第二次世界大戦が1945年(欧州戦線では1944年)に終わったあと、日本のような敗戦国を除いては、乗用車の製造の花が開いた。

とくに戦勝国、米国では、大きくてのびやかな流線型の車体に大型のエンジンを載せた長さが5メートルをこえるほどの大型の乗用車が普通に走り回るようになった。戦時下の倹約・質素の時代からの反動でもあった。

このころの米国車のデザインは、それまでの1930年代の車のデザインを引きずっていた。前後のタイヤを覆うフェンダーは、それぞれ独立して、つまり車の前後に4つのフェンダーがそれぞれの存在を主張していた。

これら独立のフェンダーがボディと一体化したフラッシュサイドというデザインになったのは、1949年になってからである。

この米国車のデザインは、欧州へも強い影響を与えた。スウェーデンの自動車メーカー、ボルボも、写真の左の黒い車を作った。Volvo PV 444 である。これは1947年から1958年まで作られたモデルだ。撮影時に製造後少なくとも30年は経っているのに、とてもいい状態に保たれている。

まるで米国車をそのまま縮小コピーしたような車だ。しかし、小さいだけ、伸びやかさが失われてしまっている。米国車のV型8気筒エンジンではなく、たかが直列4気筒で排気量1.4リットル
の40馬力のエンジンなのに、同じようなデザインを真似したために、フロントフードがばかに大きく、、他方、後部座席にはドアもなく、車体後部はへんに縮まってしまっている。

それにしても、面白い「口」だ。指を突っ込んで両側に拡げた表情に見える。

なお、後方でこちらを向いている白い車は、この黒い車のあとに出たボルボで、フロントガラスが一枚の曲面ガラスになったが、基本的な形はほとんど変わっていないPV544。1958年から1965年まで作られた。

その後、ようやく”模倣”をふっきったボルボが丈夫さをむねに作り上げた140や240シリーズのボルボは、ボルボとしては名車である。角張った、独特のスタイルをしていて、運転して面白い車ではなかったが、丈夫さには定評があった。

しかし、1990年代に入ると、角張って内部が広いデザインを放棄し、同時にモデル名の数字の3桁シリーズをやめ、また米国車のデザインに媚びるような、なんの特徴もないデザインに戻ってしまった。それとともに経営も傾き、乗用車部門は米国のビッグスリーのひとつであるフォードの傘下に1999年に入ることになった。そして、さらに落ちぶれて、2010年からは中国資本の傘下にある。

(1989年8月、ノルウェー西岸、ベルゲンの近郊のフィヨルドの岸で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)


3-1:とても”学問的な”車のヘッドライトの配光調整。さすが欧州です

車が道の左側を通っている、日本のような国は多くはない。あとは英国、フィジー、豪州、ニュージーランド、シンガポールといったところだろうか。スウェーデンは、かつては左側通行だったが、1967年に右側に転換した。一方、復帰後の沖縄は、米国流の右から1978年に左側通行に転換した。

近くて、自動車がおたがいに行き来する国で、右と左の通行がちがうのは、大変に迷惑なことだ。スウェーデンが左右を取り替えたのも、これが理由だった。

もちろん危険でもある。ロンドン市内の横断歩道には、車がどちらから迫ってくるのか、通行人のために注意の矢印が書いてある。大陸から来る”慣れない”人々のための注意である。

また、ドーバー海峡をフェリーで渡ったフランスの道には、右に寄れ、右に寄れ、と看板がうるさいほど目立つ。英国側には、同じように、左に寄れ、という看板が立ち並ぶ。

しかし、考えてみれば、国境の町に住む人たちにとっては、もし、ぼんやり間違われたら、命の問題だ。これら両側の町での車の事故率はほかよりも高いに違いない。

しかし、運転の仕方だけを注意していればいいのではない。

車のヘッドライトは前方を照らすだけではなくて、路肩にいる人や自転車も照らすために、日本や英国の場合には、正面から左側に向かって、光のビームが上がっている。つまり対向車のために正面は低く照らしていても、左側はもっと高くまで照らしているのである。他方、フランスなど右側通行の車では、逆に、正面から右側に向かって光のビームが上がっている。

このため、英国からフランスに車を持ち込むとき、ヘッドライトがそのままでは、対向車にまぶしくてしょうがない。大陸に”住み着いて”しまう車ならともかく、旅行者の車がヘッドライトを取り替えるのは無理だから、写真のように、ヘッドライトに貼り付けて、路肩側の光のビームを制限する黒い紙が用意されている。

これは、英国の有名な自動車ランプメーカー、ルーカス社の黒紙だ。フランスのシビエなどとともに、ラリーなど、ランプの性能が結果を左右する分野で令名を馳せたルーカスだけに、とても精密で”学問的”な指示がされている。つまり、ヘッドライトの種類や趣味に応じて、1から10までのどこかを切り取ってから、ヘッドライトに貼り付けなさい、というわけである。

1994年。フランス・パリ市内で。

撮影機材は Olympus OM4。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)


4-1:この国では、乗り物は独自の進化を遂げたのです、タイ。

乗り物というものがA地点からB地点までの移動・運搬手段だと考えるのは早計である。

それだけではもったいない、と考えた賢人が、この国にはいたに違いない。

オートバイ一台を目にして、それが店舗になると考えたアイデアは卓抜である。日本にも世界各国にも多い、バン型のトラックの荷台の内部だけを利用した移動販売車とは、発想の飛躍が段違いなのだ。

はじめは、おずおずと、オートバイの横のサイドカーとして取り付けたリアカーに、商品を並べていたにちがいない。

そのうちに、だんだん、大胆になった。オートバイの大きさを無視してサイドカーはしだいに大きくなり、流しやコンロ台を取付け、そしてコンロのためのプロパンガスや水タンクや、材料の棚や、冷蔵ショーケースや、そして、突然のスコールが多い熱帯の国ゆえ、屋根まで取り付けてしまった。屋根も雨よけだけではなく、商品を吊すショーウィンドウにもなっている。

店主が持つナベの蓋の大きさから、コンロに載ったナベがいかに大きいかが想像できよう。

もちろん、非力な小型オートバイにとっては、たいへんな負担である。重さからいっても、タイヤの数の負担だけ、つまり2/3はオートバイ側で負担しなければならないのである。

この国で現地生産されているヤマハやホンダのオートバイは、このような用途まで想定して生産されている(にちがいない)。

この国のアイデアの進歩はとどまることを知らない。上の”レストラン”では店主が車道に立ったまま営業を続けるのに対して、店主の休息まで考える進化が遂げられた乗り物もある。

これは雑貨屋だが、客の来ない間は、店主が横になって寝られる昼寝のためのベッドが据え付けられ、簡素とはいえ、ポリウレタンの厚いマットまで敷かれている。

このほか、客が来ないときの退屈を紛らせて充実した一日を過ごすために、ラジオや本も載せられている。ぽつねんと立ったまま客を待つことはないのだ。

また、屋根の一部は、オートバイの運転手の雨除けに、また、商品棚の一部も、ワイパーこそないが、運転手のための風雨よけに用いられている。細やかな心遣いといえよう。

ともに、2009年5月、タイで最大の島、プーケット島で


4-2:「礼の国」の行儀の良さは乗車マナーにも顕れているのです。タイ。

「ほほえみの国」、「礼の国」と言われているタイ。近年の政情不安の行方は世界が固唾を呑んで見ているものの、まだ、ほかの国にはとうてい見られない「礼」が乗り物の乗り方にも顕れている。

これは 通学の生徒たちを乗せるスクールバス。もともとは、見られるように小型トラックだが、荷台を学バスに架装してある。

一人の余席もなく、行儀よく腰掛けた生徒たちのカバンは後部にきちんと並べて置かれている。つまり、カバンを持っては乗れないくらい、たくさんの生徒を行儀よく乗せているのである。

これで旅行にでも行くときには、生徒の数はそのままに、荷物は屋根にある荷台に載せることが出来る。まったく無駄のない”パッケージング”は、後部荷台、天井荷台にかぎらず、運転席のドアまで取り払ってしまった。

つまりドアのラッチ部分がある運転席の「Bピラー」は、荷台の一部として改造されてしまっているのである。

2009年5月、タイで最大の島、プーケット島で


4-3:しかし、タイの美学は、あまりにも私たちと違っているようです。飾り立てた庶民タクシー「トゥクトゥク」。

しかし、プーケットのような、外国人観光客のためのショーウィンドウ以外のタイ全土では、このような、なんとも派手な庶民タクシーが走り回っている。「トゥクトゥク」といわれる三輪車のタクシーだ。

この三輪タクシーは、それほど昔からのものではない。日本の郵便局が大量に使っていたダイハツミゼットの旧型の軽三輪車をお払い箱にして軽四輪トラックにしたときに、その中古車を日本はODAの援助物資として輸出した。それらを輸入したタイが改造してはじめたのが、この三輪タクシーだといわれている。

その後、タイの三輪タクシーはどんどん増え、三輪車も国産化された。写真のものもタイ製(インド製のものもある)で、エンジンは360cc〜660ccの日本でいえば軽自動車なみのものだ。

それにしても、なんという派手な色と飾りだろう。私たちの美意識からすると、考えられないほどの派手派手さだ。もちろんタクシーとしては町中で目立ったほうがいいのだろうが、それにしても、この派手さは・・・。

じつは、この車は東京にある。私が東京・西巣鴨を歩いていて、偶然、目にしたものだ。つまりこの車はタイから輸入されて、日本の車検を取り、ナンバープレートもつけていたのである。

運転台はもっと派手だ。しかもごちゃごちゃしている。

まん中の四角いディスプレイのようなものは、ディスプレイではなく、なかに、速度計など、アナログの指示メーターが入っている。それだけではなく、その上部にも二個の丸形メーターが追加されている。

そして、その下にはスイッチがならんでいる。しかし、それぞれのスイッチからの配線は、なんと、ハダカのまま、変速機を作動させるシフトノブの根元のブーツからエンジンルームへ潜り込ませているのだ。

そのほかに、ただせさえ狭いダッシュボードには、ところ狭しと不思議な器具がならんでいる。電気のコンセントまである。そのほか、フロントガラスにも、ダッシュボードにも、色とりどのシールが貼られている。

(この二枚の写真は 2012年3月、東京・西巣鴨で。東京にあるタイ料理店の持ち物だという

じつは、この三輪車の「素」の姿を、昨年、私はプーケットで写真に撮っていた。

それが左の写真だ。 ハンドルバーも上の写真のものと同じものだし、ハンドルの右グリップから伸びているアクセルケーブルが不器用な形でダッシュボードからエンジンルームに行っているのも同じだ。


メーターは二個だけ。速度計が 120km/h まであるのはまったくのご愛敬だ。50km/hも出したら、危なくて乗れないほどの安定性しかない車だ。

右のメーターは、昔の日本車にもよく着いていた、電池の充電や放電の状態を示す電流計だ。車載の発電機やレギュレーターの信頼性が低かった時代には、車のメーターとして必需品だった。

あとはダッシュボードにあるのは、チョーク・ノブだけだ。これは、冷温時にエンジンをスタートさせるための補助具である。簡素なものだ。

しかし、上の写真と比べてみてほしい。なんという飾り方であろうか。フィリピンで走っている「ジープニー」という派手な車もそうだが、そもそも、美というものの基準が違うのであろう。

(この写真は 2009年5月、タイで最大の島、プーケット島で

じつは、この三輪の庶民タクシー、トゥクトゥクは、2002年からはタクシーとしての登録が禁止されてしまった。速度が出ないので、ほかの交通の邪魔になる、というのが理由だ。

そして、プーケット島のような、外国人がとくに多い観光地では、2011年現在、このトゥクトゥクはなくなってしまっていた。

そのかわりに現れたのが、日本の四輪のキャブオーバー型軽トラックの荷台を右の写真のように客席にした庶民タクシーである。

しかし、この四輪タクシーも、タイの美学の飾り立てとは無縁ではなかった。いくぶん派手さを抑えているとはいえ、消防車のような色、ど派手なシート、天井に着けた多数のランプ、派手なバンパー兼踏み台、そしてスターの顔写真の泥よけ(マッドフラップ)まで、土着の美学は争えない血筋なのである。

だが、タイでは減っているとはいえ、狭い道でも入って行けて、小回りが利き、料金も安い三輪の庶民タクシー、「トゥクトゥク」はタイ以外の国、たとえばラオスや、グアテマラなど中南米諸国では、まだ健在である。また、トゥクトゥク以外の名前で呼ばれているが、インド、ネパール、中国などでもこの種の三輪タクシーは多い。

タイの犬は、少しでも涼しくて風が通る昼寝の場所をよく知っている。

(この写真は 2009年5月、タイで最大の島、プーケット島で



5-1:たった数世帯しかいない「限界集落」の高齢者農業を支えている”乗り物”。長野県臼田町・馬坂。

商品名は「モノレール」という。日本の農機具メーカーが作っている。しかし、都会の人たちがモノレールと聞いて思い浮かぶものとはまったくちがうのが、この、急傾斜地の農業を支えている「モノレール」なのだ。

写真で見られるように、前部にごく小型のガソリンエンジンを載せ、後ろに荷台を曳く。そして、なんとも頼りない一本だけの鉄路の上を動いていくのが、この「モノレール」なのである。

ここは長野県の東端にある、戸数わずか数戸(2004年当時に11戸18人、住民の年齢は69〜88歳だったという報告がある)の集落、臼田町馬坂(まさか)だ。写真にあるように、手を使わなければ登れないほどの急傾斜地を切り拓いて農地にしている。下に果樹、上に畑がある。

もちろん、家も、猫の額のような急傾斜地に、張り付いて建っている。両側に山が迫ってきている川沿いの狭い谷には、道が一本通っているだけで、平地というものはどこにもない。

じつは、この集落は不思議なところにある。長野県から群馬県に抜ける細い峠道沿いにあるのだが、ほかによくあるように峠が県境
なのではなく、峠を越えてから標高にして500メートルあまりも下った群馬県側に県境があるのだ。

峠は臼田町に属するのだが、そこからこの馬坂部落に行く、川沿いのたった一本の道のかなりの部分は群馬県に属している。場所としては飛び地ではないのだが、つまり、人間が通れる道を辿るには、いったん群馬県側に入らざるをえないのだ。

この田口峠の標高は1110メートル。西は信濃川、東は利根川の分水界でもある。信濃川は日本海に注ぎ、利根川は太平洋に注ぐから中央分水嶺でもある。信濃川と利根川の中央分水嶺が県境になっていないのは珍しい。

臼田町の本町は小海線沿いの平地にあるが、臼田町に属するこの集落を通って群馬県の下仁田に抜ける道は、いまだに一車線しかない。

もちろん交通量はごく少ない。私が通ったときも、行き会ったのは3台の自動車だけだった。

集落にも、もちろん郵便配達は来る。しかし、郵便のバイクは、臼田町から信濃川の源流沿いの道を登り、田口峠を超え、さらに500メートルあまりの急なつづら折れの屈曲した道を下ってこの集落に達する。

しかし、電気も電話も、じつは群馬県から来ている。電話の市外局番は群馬の局番だ。しかし長野県佐久版の電話帳にはこの群馬の市外局番付きで載っている。

この集落には、いまは子供はいない。小学校は1970年代に廃校になってしまった。かつていた高校生は、東にある群馬県の富岡の高校で寄宿生活をしていたという。

残った老人たちだけでこの集落を維持するのがどのくらいたいへんなのか、想像できるだろうか。

この狭い、急傾斜地の畑や果樹の手入れや収穫をするためには、こういった「モノレール」が不可欠なのだろう。たとえば、いま、荷台に載っている25キログラムの肥料袋も、担いで上にまで持っていくことは、老人たちには不可能なのにちがいない。

私が知っているいくつかの国では、こういった田舎の暮らしが、それなりになり立っている。一方日本では、こういう田舎で暮らすことがむつかしくなってしまったのは、誰の責任なのだろう。高度成長。経済優先。日本の貧しいところに原子力発電所を押しつけてきた政策と根は同じだ。戦後日本の”指導者”と追随者たちの罪は重い。

(2011年6月、長野県臼田町馬坂で)



6-1:イタリア車の鉄板は、どこまで錆びるのでしょう。

かつて、イタリアにはアルファロメオ社が作ったアルファスッドという名車があった。じつは日本のスバル1000を真似したのではないかといわれ、アルファロメオ社のゴミ捨て場には、分解したスバル1000の部品が大量に積まれていたという目撃談もある。

スバル1000は1967年に発売されていて、アルファスッドは1971年から発売になった。

アルファスッドは1989年まで作られたロングセラーだったが、
じつは、とんでもない欠点があった。それは、使われていた鉄板の質が悪く、年月とともにサビが進んで、手がつけられなくなってしまうことだった。

しかも、モノコック構造という、ボディー表面の鉄板も構造材として働いている設計の車だったから、錆びると、見かけが悪いだけでは済まず、車そのものが弱くなってしまったのであった。

この鉄板は、製鉄の原料に使われたくず鉄の質が悪かったとも、あるいは当時のソ連から輸入した鉄板のせいだともいわれたが、いずれにせよ、イタリア車は錆びやすい、というのが定評になっていた。

話はちがうが、私がかつてノルウェーの西海岸で研究活動をしていたとき、その港に入港してくる旧ソ連やロシアの漁船のサビに驚いたことがある。この写真のようなサビが、船の全体に及んでいたのである。これらの船は、ノルウェー沖で魚を獲り、それをノルウェーに売りに来るのを商売にしていた。国全体の経済がままならないから、こんな状態の船をよくも使っているものだ、というくらいのサビだらけの船だったのである。

さて、この車はイタリアのフィアット850という大衆車だ。1964年に発売になり1971年まで作られていた。ダンテ・ジアコーサ(Dante Giacosa、1905 - 1996)という当時のフィアットの小型車をすべて設計した天才設計者が作った。

目が大きくて、可愛い顔つきが特徴だ。後ろ姿もまとまっている。

アルファスッドよりも古いとはいえ、なんともすさまじいサビだ。しかし、車検もあり、ナンバープレートはちゃんと着いている(番号は画像ソフトで消してある)。

しかし、この車が走ってきたら、まず間違いなく、相手が避(よ)
けるだろう。

もっとも、ひとのこともいえない。私が長年乗っていたスバル1000は、リアウィンドウの下部が錆びてきて、ガラスが落ちそうになったので、やむをえず中古のスバル1300に乗り換えたこともあったからだ。

フィアット850は、錆びやすいことをのぞけば、とてもいい車だった。843cc、34馬力または37馬力の水冷の直列4気筒の OHV エンジンを車体の後ろに積むRR (リアエンジン、リアドライブ)の車ゆえ、車室内は車の大きさに比べて広かった。

ふつうの車ならばリアトランクリッドにあたるところの上に開いているルーバーは、エンジンがこの中に入っていることを示している。ポルシェと同じだ。

車の全長は 3,575mm、全幅は 1,425mm、車体は670kgと軽量であった。なお、後期には903 ccで47馬力のエンジンを積んだ高出力モデルもあった。当時のBMW2002というドイツ製の高性能セダンの、小さいながらイタリア版の対抗馬であった。

このフィアット850は、その前に売られていたフィアット600の後継車だった。このィアット600もダンテ・ジアコーサによるもので、1955年から1969年の間に生産された大衆車だった。やはりリアエンジンで、663cc 直4・OHV 21hpと767cc 直4・OHV 29hpの二種のエンジンを積み、車の全長は3215mmで、この850よりもひとクラス、小さかった。

1971年に、このフィアット850を引き継いだのは、フィアット127であった。この車からフィアットはRRをやめ、前輪駆動(FF)の車になった。小さいながら、なかなかの名車で、私もヨーロッパで運転して、感心したことがある。(たとえば、この田舎の写真は、この車で行ったときに撮ったものだ。中央に写っているのは、通りかかった別のフィアット127である)。この車はダンテ・ジアコーサが直接作った最後の車であり、1972年のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

なお、フィアット500はもうひとクラス小さな兄弟で、1957年に発売され、1975年まで20年近くにわたって生産されつづけた名車である。これも、ダンテ・ジアコーサが作った。全長は2970mmと、さらに小さい。世界中で340万台も売れた。しかし、こちらは空冷直列2気筒、479cc・13psのOHVエンジンという格下のエンジンだった。

フィアットも、近年、欧州各メーカーの生き残り競争の中で、売らんかな主義に堕落した。2007年5月に発売した「新型500」は、50年前に発売した「旧」500の外形だけを、しかも、みっともなくなぞっただけの、不格好な車として登場することになったのは、別項で書いたとおりである。

(2011年8月、東京都練馬区で)


7-1:たくさんのものを載せるのを拒否したトラック

トラックは、いうまでもなく、なるべくたくさんの荷物を運ぶのが使命である。そのために、荷台はなるべく広く、長く、そして平らで低くなければならない。

しかし、ここに、そのトラックとしての使命を放棄して、別の使命に徹したトラックがある。「頭」の大きさにくらべて、荷台は小さく、そして開口部も狭い。そして荷台は地面からはるかに高い。

唯一、普通のトラックと同じものは、宅配便のトラックのように、運転手の名前を後部に掲げていることだ。

そう。これは世界でもっとも過酷なラリーと言われたパリ・ダカールラリー(現ダカールラリー)のトラック部門(カミオン)を走破するための特別製のトラックなのである。

なお、パリ・ダカールラリーは1979年から毎年行われていた有名なラリーで、
例年1月1日(近年は前年の12月末)にフランスの首都・パリから出発してスペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都・ダカールまでのおよそ12000kmを走ることで知られていた。

しかし、アフリカの政情不安や、アフリカの一般住民が住んでいる地域を競技車両が猛スピードで駆け抜けていたので住民と競技車の事故もあったことなどから、2009年からは南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからチリを回る周回コースに変わり、さらに2012年からはアルゼンチン沿岸のマル・デル・プラタからペルーの首都リマまでのルートになり、名前も「ダカールラリー」(現在の正式名称は「正式名称ダカールラリー・アルゼンティーナ・チリ・ペルー」)に変わった。

不整地を走破するために、タイヤは大きく、最低地上高は極めて高い。乗り込むのも、荷台にものを積むのも大変な高さなのである。

一方、「頭」のほうは、6つもの強力な補助ランプや、ガード類に取り巻かれての派手づくりである。

日野自動車は1991年から、このラリーに参加するために、同社の中型トラック、日野レンジャーを改造してきた。20年間、毎年完走するという快挙で、1997年には、エンジン容積が3倍もあるトラックに走り勝って、1〜3位を占めた。

この写真のものは2011年に出場して完走した車だ。

車両形式は日野レンジャーFTをベースとしていて、車両総重量は7トン、エンジンは直列6気筒8リットルのの直噴ターボ・インタークーラー・ディーゼルである。燃料噴射は機械式。トランスミッションは副変速機つきの前進6段、後進1段で、段数はそれほど多くはない。

それにしても、チョロQをそのまま大きくしたような、寸詰まりのなんとも滑稽な形をしている。 そもそもラリー、いや、何を使ってもすぐに競争を始めてしまう人類というものの滑稽さを表している形なのかもしれない。

(2012年2月、東京都八王子市の日野オートプラザで。なお、この日野オートプラザのいいところは、失敗作とその理由も正直に展示してあることで、たとえば、あるトラックエンジンは「耐久性が悪く、短命に終わった」とか、別のトラックエンジンは「静かで高出力のエンジンだが、始動時の白煙が多く短命だった」などと明示してある。)


8-1:厳寒地に冬だけ働く季節労働”車”。

乗り物の中には、冬しか出番がないものもある。

これは、北海道・千歳空港にある、「デアイサー(除氷車)」という、飛行機の翼に不凍液を吹きかける専用の自動車だ。

いうまでもなく、飛行機のような重いものが空を飛ぶためには、「揚力」というものを生み出すための巨大な翼が必要だ。模型飛行機を作ったことがあるのなら分かるだろう、その翼の断面は前縁が丸く、後縁に行くにしたがって薄くなっていく特殊な形をしている。

もし、磨き上げたこの翼の断面に、氷や雪が着いてしまうと、飛行機は揚力を失う。1982年に米国ワシントンで、ポトマック川に墜落したジェット旅客機、エア・フロリダ90便のボーイング737(B737)のような大事故が起きる可能性が高くなるのである。

じつはB737 型機は主翼の前縁部に氷雪が少しでも着くと離陸のときに急激な機首上げを生じて、失速の原因になるという、この機種固有の特性があった。 しかし、ほかの機種でも、翼に着いた氷雪は重大な事故を起こす可能性がある。

このため、飛行機が客を乗せてから、滑走路へ向かって出発する前に、この特殊車両の出番がある。エチレングリコールなどの不凍液を写真に見える斜め下に向いた赤い筒先から、飛行機の翼にまんべんなく噴射する。

じつは、この不凍液の「有効期限」はごく短い。激しい雪が、その後降り積もるときには、わずか20〜30分で、効かなくなってしまう。

このため、客を乗せてからが出番なのである。

もし、滑走路の除雪が間に合わなかったり、滑走路が混んでいたりすると、また、このエプロンに戻ってきて、不凍液をかけ直さなければならない。私も何度もいらいらさせられたことがある。

そして、航空会社にとっては手間も、そして高価な不凍液をはじめ、金額もなかなかのものになる。

写真は2011年11月に、北海道・千歳空港で撮った。翌日には平地でも初雪、という天気予報だったので、この特殊車が、最後の訓練をしているところだった。

じっさいの出番には、この写真のように条件がいいことはない。雪が降りしきって視界が悪く、翼に載った雪と地面を見分けるのも大変な天候のことが多い。

飛行機の翼の面積は大きく、しかも、作業は一刻を争う。写真のB767の場合は、主翼だけで283平米もある。いまは国内線ではANAだけになったが、B747では510〜540平米もある。ともに都会のサラリーマンの家の庭よりもずっと広い。

視界は悪く、作業は急がなければならない、となると、いちばん怖れていることは、この特殊車やアームが、機体にぶつかることだ。機体を傷つけたら、一大事になる。

このため、特殊車のクレーンの操作も、細心の注意が必要なうえに、不凍液の噴射口は、写真のように、とても目立つ赤色になっている。

それだけではない。右の写真に見えるように、この特殊車は、目の前に、まるで天秤棒のような黄色の長い棒と、その両端から、赤いリボンのついた錘のようなものを垂らしている。これも、飛行機の翼にぶつからないための用心なのである。

じつは、このトラックはボルボ(Volvo)製である。いまは乗用車部門は中国資本の傘下に入ってしまったが、もともとボルボはスウェーデンの乗用車やトラックや特殊車のメーカーだ。やはり、この種の冬に活躍する特殊車には一日の長があるのであろうか。



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