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島村英紀が撮ったシリーズ
「不器量な乗り物たち」その5:鉄道・路面電車編
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「不器量な乗り物たち」その6:戦前・戦中編はこちらへ
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1-1:イモムシの頭をしたドイツの新幹線
1-2:フランスの新幹線は、もっとまともな顔をしています
1-1のドイツの「新幹線」ICE特急とくらべて、フランスの新幹線TGV(「高速列車」を意味する Train a Grande Vitesse
)は、昆虫じみてはいない。もちろん、日本の近年の新幹線ほど醜悪な顔つきをしているわけではない。少し目が寄っているものの、さすがにフランスの良識というべきであろう。
じつは、フランスは高速鉄道のパイオニアである。このTGVも、はじめはガスタービン電気式機関車として計画された。ガスタービンは機関車として普通に使われているディーゼルエンジンよりも小型軽量であり、長時間に連続で高い出力を発揮するために選ばれたものだった。
これは、ジェット旅客機に使われているのと同じターボプロップエンジンで発電機をまわして電力に変換し、車軸に接続したモーターを駆動するもので、1967年に試作され、量産化もされてイランやエジプトにも輸出された。
じつは、私は1977年に海底地震観測のために、ホメイニ革命の直前だったイランに行ったことがある。そのとき、首都テヘランから、私の共同研究者だったイラン人科学者がいる、イラン第二の都会、マシャドまで行く、高速鉄道にだけは乗るな、と言われたのを覚えている。汽車は高速で走るのだが、線路の保安がついていっていないので、事故が多くて、とても危険だと忠告されたのである。そこを走っていたのは、このフランス製の高速機関車であった。
なお、当時のイランは石油の利権を王族が独占しており、鉄道や軍備には巨費を使っていた。軍艦も、英国ロールスロイス社製のガスタービンエンジンを備えており、恐ろしく速くて、甲板上では呼吸が困難なほどだった。
フランスでは、1972年に、新幹線用として最初のTGV車両である「TGV001」というガスタービン機関車が試作された。これは時速318kmにまで達することが出来たので、当時世界で最速の列車であった日本の新幹線の速度を大きく上回った。しかし、その後のオイルショックで、フランスのTGVはガスタービンをやめ、電気機関車方式に変更したのであった。
ところで、最初に在来線のレールを使った高速鉄道を始めて、時速200キロを優に超える速度を出したのは、世界でもこのフランスのTGVが最初であった。
フランスのTGVが日本の新幹線より有利だったのは、 在来線の軌間(レールの間隔)が1,067mm(狭軌)となっている日本とちがって、フランスを含むヨーロッパの多くの国では在来線も軌間は1,435mm(標準軌)となっていることだった。
このためTGVはスピードを落とせば在来線をそのまま走ることができるので、新幹線用の土地を新たに買収して線路を引く必要が少なかったことであった。とくに用地買収が難しい都会での新線建設の必要がないのが最大の利点であった。(なお、日本でも、京浜急行、京王線、京成線、都営地下鉄新宿線などは、標準軌を使っている)。
TGVは、1981年9月27日に首都パリからフランス南部のリヨン間が開業し、時速260kmでの営業運転が始まった。
開業当時はこの2つの大都市を、飛行機よりも高速に結ぶ最速の交通手段であることが「売り」だった。
その後、このTGVは広く欧州各国を走るようになり、1994年:
ユーロトンネル(英仏トンネル)開通に伴い、ユーロスターがロンドンまで乗り入れた。
私が乗ったのは、1984年の夏で、フランスでの開業後、それほど時間がたっていないころだった。座席にまわってきた愛嬌がよくて愛くるしい車掌(右写真の右)に頼んだら、あっさり、運転席に連れて行ってくれた。
運転手もこの新幹線が自慢らしく、時速260キロを超える速度で走りながら、運転のやり方など、いろいろ教えてくれた。在来線のレールの上を走るところもあり、それなりに気を遣うのだよ、と言っていたのが記憶に残っている。
新幹線に限らず、私はよく、飛行機の操縦席も見せて貰った。今は昔のことになるが、1990年代までは、欧州を飛ぶ旅客機は、操縦席のドアを開けたまま飛んでいるのが普通で、気安く操縦席に案内してくれた。
なかでも、私が地球物理学者だとわかると、気象レーダーなどを操作して、実際に前方の雲を見せてくれたり、操縦席から見えるオーロラの話をしてくれたりしたものだ。
左写真は運転席の操作盤。丸いハンドル様のものが二重になっていて、この二つを常に握っていないと、列車は自動的に停止するようになっている。日本の列車のように、レバーを前に倒すだけだと、運転手が意識を失って倒れかかったら、そのままになってしまうから、それよりは、このフランスの新幹線方式のほうが安全だろう。
元フィルムだと、ハンドル前方の長細い窓に速度計があり、このときには時速264キロを示して数字が明瞭に見える。
ハンドルの上に乗っているのは、走行ダイヤである。
運転席からの前方の眺めは、さすがに圧巻であった。速度自体は、飛行機の離陸速度とそれほどちがうわけではないが、飛行機のように側方ではなく、前方の線路やそのまわりが見え、飛ぶように後ろへ去っていくのであった。
フランスでは、1990年には、大西洋線での走行試験で、鉄路を走る列車としては世界最速の515.3km/hを出している。また、2007年4月には、開業前のTGV
東線 (LGV Est) での公式走行試験で、特別編成の列車が時速574.8km/hを出して、浮上しない列車としては世界記録を更新した。高速列車は、いわば、フランスの意地なのである。
(1984年7月、フランス南部・リヨン駅(ずっと上)とパリまでの途中(右上とすぐ上)で。撮影機材は Olympus
OM-2。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR)
2-1:二度の世界大戦を生き抜いたドイツの路面電車(ブレーメン中央駅前で)
2-2:これも古さではひけをとらないリスボン(ポルトガル)の市電(リスボン市内で)
2-3:これは1950-1960年代のものでしょうか。レニングラード(現サンクトペテルブルグ、ロシア)の市電(1974年)
2-4:ウィーンの市電は形も駅も”丸い”のです
市電のデザインは上のレニングラードのように、あくまで角張るか、このウィーンの市電のように、どこまでも丸くするか、どちらかしかないのだろうか。
しかも、この市電は、乗り降りする駅まで、丸い。これでは、プラットホームと電車の隙間が大きく開いてしまうから、高齢者には楽ではない。
また、上のレニングラードの市電もそうだが、この市電も絶対に後ろ向きには運行しないことを想定して作られている。つまり、ヘッドライトも運転席も、こちら側にはない。
つまり、すべての市電の前後両側に運転席を作るよりは、それぞれの市電の線の終点にこの写真のようなループ状の線路を造ったほうが安上がり、ということなのであろう。
もちろん、故障車を牽引したりすることもあるから、写真のように、後部に連結器は用意されている。
(1996年1月、オーストリア・ウィーン市内で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKL200)
2-5:スイス・チューリヒの市電はレニングラードのより、もっと角張っていました(1975年)
これは、上の丸い市電を、そのまま角張らせたような不思議な形だ。このため、前部の運転席の窓は、普通の横長どころか、正方形を通り越して縦長になってしまっている。
どうしてここまで前部を絞る必要があったのだろう。車ならば、曲がるときに「外側回転半径」を小さくするために前部の角を絞ることがよく行われる。しかし、市電はレールの上しか走れないわけだから、無理をしてここまで絞る理由はないように見える。たんにデザインなのだろうか。
さすがに、頬がこけたような、この陰気なデザインの市電は評判がよくなかったのか、いまは(2009年現在)廃れていて、もっと親しみのある形の新型車が何種類か投入されている。
この写真の市電の”後継者”は低床化され、縦長の前の窓が下すぼまりの梯形になっている。なお、チューリヒも、サンクトペテルブルグと同じように、市電が四通八達している市電の町である。
この写真で見ると、欧州に多い二両の永久連結の市電は、前の車両にパンタグラフも、モーターも、運転席も、みんな集まっていて、後部車両は、たんに引っ張られているだけであることがわかる。
上のウィーンの市電もそうだが、この「10番」の市電も、路線番号が途方もない大きさに掲示されている。これは年寄りや、眼が弱い人にとっては福音である。
(1975年8月、スイス・チューリヒ(チューリッヒ)で。撮影機材はOlympus
OM1。レンズは Zuiko 50mm F1.8。フィルムはコダクロームKR64)
2-6:路面電車の「裏方」
2-7:電車の「裏方」には、こんな奇妙な「軌陸車」もあります。
日本でも、鉄道を支えている裏方には、これと似た「乗り物」がある。向こうに見えるのはトラック、手前にあるのはパワーショベル(左下の写真にもある)で、ともに、レールの上も、道路の上も走れる両用車である。
これらを、日本では「軌陸車(きりくしゃ)」と言っている、知らなければ、耳から聞いても、決して分からない業界用語である。
これらは、平地を走るためのゴムタイヤや、無限軌道(クローラー)を持っているが、同時に、線路を走るための鉄輪も持っている。
そして、これらの鉄輪を使うときは、油圧で車体を持ち上げて滑稽な姿になり、タイヤや無限軌道が地面を離れている状態で、鉄輪を本体のエンジンで駆動する仕掛けになっている。
重い車体を細い”足”で支えている姿は、まるで山田紳が描くところの漫画の人物像のようだ。
つまりこの奇妙な乗り物は、線路の上を、とてもゆっくりながら、走ることができる作業車なのである。もともと鈍重な車だし、もちろん、ロードホールディングも、ステアリングレスポンスも問題外の運転を強いられることになる。
そして、この鉄輪は車軸の両端にそれぞれ一つずつが付けられている、ごく普通の仕組みだが、じつは、両側の鉄輪は「電気的に絶縁されて」いる。
つまり、普通の鉄製の車軸ではないのだ。これは左の写真のパワーショベルの鉄輪をよく見ると分かる。左右の鉄輪を単純に車軸でつないだ構造にはなっていないのである。
これは、上の2-6のドイツ・ブレーメンの軌陸車とは違うところだ。ブレーメンのものは、単純な鉄の車軸が通っている。
それは、これも業界用語だが、「線閉(せんぺい)」と言われる「線路閉鎖信号システム」のためなのである。この「線閉」とは、汽車や電車が踏切に近づいたときに、踏切を閉めたり警報機を鳴らすための自動システムで、踏切の何百メートルか以内で、両側の線路が汽車や電車の車軸によって電気的にショートされたときに働くようになっている。
しかし、この種の作業車は、踏切のすぐ近くで作業しなければならないこともある。たとえば鉄道が走っていない深夜に踏切ではないところで作業しているときに、踏切が作動してくれては困ることが多い。このための電気的な絶縁なのである。
(東京・練馬区の西武池袋線の石神井公園〜大泉学園間の高架工事現場で。撮影機材はRicoh Caplio R1。上の写真は2009年12月、、レンズは135mm相当、F4.8、1/28s、ASA154。下の写真は2010年1月、レンズは28mm相当、F3.3、1/84s、ASA100。)
なお、約半世紀前の「軌陸車」の写真はこちらに
3-1:形もドアもバスそのものの鉄道(ドイツのローカル線を支えたレールバス)
4-1:よほど衝突が怖いのでしょう(フランクフルト中央駅の「暴走防止」柵)
4-2:オーストリアの電車は、あくまで長方形が嫌いのようです
電車の運転席の窓は、普通にデザインすれば、なんの変哲もない横長の長方形になってしまう。
これは視界をなるべく広く取るための、ある意味では必然である。バスや車の運転席も、同じ理由で、基本的には長方形である。
ところが、芸術の国、オーストリアのデザイナーはちがった。窓を末広がりの台形としてデザインし、それを強調するために、さらに台形の青い枠まで取り付けたのだ。
機能的には、このデザインで空気抵抗が減るわけでもないし、なんの意味もない。しかし、そこが”芸術”なのかもしれない。初めて見るとかなり滑稽に見えるが、ウィーン子は見慣れてしまったのであろう。
この4020系電車はオーストリア国鉄が主力として使っている通勤電車で、1979年から作られている。出力は1200 kw/h、最高速度は120 km/hである。
(1996年1月、オーストリア・ウィーン西駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKL200)
4-3:しかしオーストリアの一世代前の電車は、まったくちがう、丸っこいデザインでした
上の4020の14年前、1965年から作られたのが、この4010型の電車だった。出力は2265kw/h、最高速度は150km/hという高性能車だ。
いまだに現役だが、当初の都市間高速長距離電車から、しだいにローカル線用に「格落ちの」使われ方に変わってきている。
この電車のデザインは、上の4020型とはまったくちがう。丸くて、愛らしいというべきだろうか。
しかし、両側のヘッドライトまわりと、それを囲んで車体の側面へ流れていく線は、それなりのデザインの意欲を感じさせる。日本の新幹線の気味の悪さとはまったく無縁の、親しみやすいデザインというべきであろう。
(1996年1月、オーストリア・ウィーン西駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは
Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKL200)
5-1:二本の角を生やしたイモムシ(ドイツのローカル線を支える主力ディーゼル機関車)
ハンブルグ中央駅は全体が巨大なガラスの屋根で覆われていて、写真上部に見られるように、駅を横断している2本の橋の上には、花屋やパン屋、衣料品など、賑やかな商店街がある。
5-2:かつてドイツ国鉄の主力電気機関車だった110型。やはり丸っこい芋虫型です(1975年、スイスのフォルツハイム駅で)
5-3:フランスはドイツのすぐ隣の隣国なのに、なぜ、このようにちがうのでしょう(フランス国鉄の主力機関車)
5-4:フランスは機関車にごつさと力強さを求めているのかもしれません(新旧のフランス国鉄の主力機関車)
上の5−3の中距離型電気機関車のほかに、大都市近郊の電気機関車でも、新型(左側)は、前窓にあえて流線型を採用せず、空気を押し分けていくようなまっ平らの平面を採用している。
左右二枚に分かれているガラスなのに、あくまで平面に並べる、というデザインに、その意志の強さが読みとれる。
一方、奥の電気機関車は、古き良き時代、おそらく戦前、あるいはもっと前のアール・デコの時代さえ彷彿とさせるような優雅なデザインだ。フランスの車にも、この種のデザインがある。
ヘッドライトの意味ありげな飾りや、中央の誇らしげなヘッドマークや、平面ガラスながら、組み合わせることで一見、曲面の流線型に見える前窓のデザインは、明らかに当時としては最高の品の良さを狙っていたデザインである。
(なお、機関車の屋根の上に見える丸い玉は、駅舎の天井灯である。これも優雅なものだ。)
(1990年3月、フランス・パリ北駅。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR)
5-5:トルコの電気機関車は地味な色ですが、あまり洗ってもらえないからでしょうか
トルコ国鉄(TCDD)の、やや古めの主力電気機関車。プレートには4003とある。パンタグラフがふたつ載っている。ここはかつてオリエント急行の終着駅だったイスタンブール駅だ。
下のルーマニアの機関車と同じく、じつに地味な色をしている。あまり洗ってももらえず、煤煙や塵埃の多いトルコ各地を走り回っても、汚れが目立たない色なのであろう。
以前、東京都でいちばん水を使うのは品川の国鉄車庫、二番目が東京大学だと聞いたことがある。日本は電車や汽車は、よく洗ってもらえる国なのである。
トルコの鉄道の電化は25 kV、50 Hzの交流電化である。日本では新幹線以外は交流電化はごく限られているが、交流電化の方が効率がいい。
この機関車のあと、トルコ国鉄はE43000形電気機関車を導入し、主力の電気機関車にした。これはじつは東芝製で、トルコ国内の工場でもライセンス生産されていた。貨物用のものは最高速度90km/h、旅客列車用は、歯車比を変更して最高速度を120km/hになっている。
また、さらにその後、この写真の色ではあまりに見栄えがよくないと思ったらしく、近年では、白ボディーに赤と青の横線が入った新しい配色のものも増えている。
また、E52500形といわれる電気機関車をボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄(ZBH)から譲ってもらって多数が使われている。鉄道車両のお古をほかの国に譲るのは珍しいことではなく、たとえばアルゼンチン・ブエノスアイレスの地下鉄は、東京の丸の内線の地下鉄の赤い初代車両がそのまま走っている。丸の内線は私が中学に入ったときに開通した電車で、そのおかげで私は家から中学に通うことができたから、懐かしい電車である。
(1989年8月、トルコ・イスタンブール駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)
5-6:ルーマニアのディーゼル機関車は地味な色ですが、不思議なスリットがあります
チャウシェスク時代のルーマニアの田舎を、客車を牽引して走るディーゼル機関車。上のドイツの芋虫のような形ではないし、フランスの筋骨隆々という形でもない、ごくおとなしい地味なデザインだ。前から見たら、機関車には見えず、普通の気動車のように見える。
ちょっと変わっているのは、運転席の窓の間と、下にある、3つのスリットだ。これは、ドイツのにも、フランスのにもない。このため、車体を前から見ると、眉間にしわを寄せ、眼の下がたるんだ鉄仮面に見える。
機関車を止めて運転手に聞いたわけではないが、南欧に近い大陸国であるルーマニアでは、冬が寒い割には、夏が暑い。このため、このスリットは、運転席を冷やすための外気取り入れ口なのではないだろうか。ラリー用の自動車の外気取り入れ口のようなものだ。
その下にある、小さなラジエター風のものは、なんだか分からない。機関車の体積の多くを占める巨大なディーゼルエンジンを冷却するためには、あきらかに容量不足である。
これも、運転席への空気取り入れ口だろうか。
線路は単線である。よほどの幹線でない限りは、貧しい国では単線が普通なのである。
(1985年10月、ルーマニア中部、フォクシャーニ近くで。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)
5-7:台湾のディーゼル機関車は過密な国らしく、目立つ工夫をしています(1971年、台湾・高雄市で)
これは1971年当時、台湾で使われていたディーゼル機関車S400。地味な青色に、ちょっとおしゃれな白線が入っている。低速車ゆえ、前面は、空気抵抗のことをまったく考えていない運転席だ。
この機関車は操車場や駅の構内で客車や貨車の入れ替えに使われるためのもので、米国製。1970年から導入されたから、当時は最新鋭だったことになる。
後年、台湾の機関車はすべてオレンジ色に塗られ、この機関車も例外ではなかった。1997年に引退したと言われている。
電気式ディーゼル機関車で、1100馬力、自重は54トン。最高速度は75km/h。入れ替えようだから、力持ちだが、速くはない。台湾鉄路管理局が5台持っていた。
しかし、いちばん目立つのは、人の背ほどある巨大な黄色と黒の縞模様だ。ほかの国の汽車は、まず、このような派手な衣装は身にまとってはいない。じつは、この入れ替え用だけではなく、台湾のどの汽車も、このようなど派手な縞模様がついている。
これは、たぶん間違いなく、狭い国土に過密な暮らしをしている人々の住宅ぎりぎりのところを走っている汽車が、目立つ工夫を精一杯している姿なのであろう。(下に載せている札幌市電の除雪車も、同じだ。)後年、車体の青い部分をオレンジ色に塗りかえられたのも、その一環であろう。
台湾に限らず、フィリピンやインドネシアでも、汽車の窓から手を出せば触れるくらいのところに住宅密集地があり、人々は汽車が来ないときは、レールの上を平気で歩き、汽車が通らないときには、線路さえも生活空間にしてしまっている。
このため、目立つ、ということは、鉄道会社にとって一番大事なことなのである。
一方、踏切には、「急いで渡るな、死ぬぞ」という警告文もある。人口あたり汽車に轢かれる人数が、とりわけ多い国なのにちがいない。
踏切を渡っているのは日産ブルーバード510型のように見える。しかし、これは台湾でライセンス生産されているもので、悪路ばかりを走ってもあごを出さないよう、後輪の独立懸架のサスペンションをリジッドアクスルの板バネに”退化”させたものである。
(1971年3月。台湾・高雄市で。撮影機材はOlympusPen-FV。レンズは.Zuiko
25mm f4。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した
6-1:最新型の「目がない」イモムシ(ドイツの最新型ローカル線のディーゼル列車)
これは、最新型のドイツのローカル線用のディーゼル列車。2両の固定連結車だ。なお、この写真の駅には架線があるが、ドイツ全土の鉄道の電化率は約50%である。
北ドイツのブレーマーハーフェン市から、さらに北へ、北海岸の町までを往復したり、ハンブルグ郊外の地下鉄の終点まで往復するなど、ブレーマーハーフェンを中心にした、電化されていないローカル線Nordseebahn(「北海」線)に使われている。これもEVBだ。
EVBは19の駅とそれをつなぐ路線しか持っていない小さな会社だ。そのEVBが2003年の12月に新たに投入した最新型の列車が、この「Coradia LINT
41」である。
最高時速120km/hだが、哀しいことに、EVB自前の線路は貧弱なので80km/hしか出せない。他線に乗り入れたときだけ、この時速が出せる。
しかし、内部の椅子の配置は、とても洒落ている。日本の鉄道のように、同じ形の椅子が無味乾燥に並んでいるのではなく、形も配置も、そして椅子の高ささえもバラエティを持たせた造りである。
椅子は二両合計で129席。低床式の車体だし、身障者用のスロープや、とても広いトイレも装備しているのが自慢だ。
ドアは2両編成全体に片側2つしかない。日本のような通勤ラッシュとは無縁の土地柄なのである。
しかし、この最新型も、やはりイモムシに見える。形のほか、色のデザインのせいもあるだろう。
ヘッドライトがきわだって小さいのが特徴だ。近頃の車と同じく、プロジェクターランプなのであろうが、このため、よけいイモムシめいて見えるのであろう。4つに見えるが、下二つは、赤灯で、列車後部に点灯させるものだ。
また、写真ではちょっと見えにくいが、ワイパーの軸の上に見える丸いものも、じつはヘッドライトである。ドイツの鉄道は、律儀に、前には3つの前照灯、と決めているのであろう。
(2004年10月、北ドイツ・ブレーマーハーフェン駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは90mm相当、F2.8、1/500s)
6-2:プラットホームが不要なオーストリアの山岳ローカル線(狭軌のディーゼル列車)
これは、1986年から使われている、オーストリア国鉄のローカル線専用のディーゼル客車だ。上の最新型のドイツのローカル線用のディーゼル列車とくらべ、親しみやすくて、まっとうで穏やかな顔つきをしている。近年の車のデザインもそうだが、気味の悪い動物や深海魚や昆虫を連想させるものが多いのは私には苦手だ。
ドイツとオーストリアの鉄道は、よく似ている。上の5-1のドイツのディーゼル機関車と同じように、オーストリアでも、車体前部に、形式名と、車体製造時の通し番号と、チェックディジットが書かれている。ここには5090
001-8 とある。
つまりこれはオーストリア国鉄(OBB)の5090型のディーゼルカー(客車)の1号車である。5090型は、ナローゲージ(日本では標準だが、線路間の幅が小さいので欧州ではローカル線だけに使われている線路)用の車両で、1986年から作られていたものだ。この5090は、なかでも線路の幅が狭く、76cmしかない。トロッコなみの狭さである。
車両の両側に運転席があり、一両だけで、どちら向きにも走れるようなローカル線仕様になっている。このため、見られるように、前方に走るための3つの前照灯と、後部になったときのために4つの赤い尾灯がついている。
車両の製作所はKnotz、定格出力は 235KWH、引っ張り力は 82KN、線路幅が狭いために最高速度は 70Km/h しか出ない。それも、直線部分でないと危険だろう。つまり山間地のローカル線専用車だ。
プラットホームもない平地から乗り降りできるよう、ステップがついている。いわば、バスのように、どこでも停まって、客の乗り降りができるのである。そもそも、欧州のプラットホームは、上の写真いくつかに見られるように、日本のそれよりもずっと低い。日本のプラットホームの高さはどこに学んだものか、無駄に高いのではないだろうか。
スイスと同じように、山岳路線が多いオーストリアだが、ばかにしてはいけない。OBBは、200km/hに対応する高速の電気機関車も所有している。これは国境を越えて走るIC特急用である。
この汽車は、背景にあるような美しい景色を縫って走る。観光客には「美しい」景色ではあるが、斜面の中腹や上に住む人にとっては、駅から家までの坂の上り下りは容易ではなかろう。何世紀にもわたる生活で、慣れてしまった人たちが住んでいるにちがいないとはいえ、年をとったり、病気になったら、どうするのだろう。
(1991年8月、スイス国境に近いオーストリアの山中で。撮影機材はOlympus OM-4Ti。レンズはCosina
AF Zoom 28-70mm。フィルムはコダクロームKR)
7-1:北緯79度、世界最北の地にあったSL。
7-2:1973年7月・北海道・釧路にいた蒸気機関車C111。いまでこそSLブームとやらで蒸気機関車がもてはやされているが、実際に日本各地を走っていたころは、鼻つまみものだった。乗客の衣類や線路際の家や洗濯物には真っ黒なススが着くし、機関士が上り坂のトンネルで窒息死したことさえある。
音や姿はまあまあなのだが、あの黒煙だけは、その時代に苦労した者としては懐かしく思い出せるものではない。
このC11型蒸気機関車は1932年(昭和7年)に製造が始められ、戦後の1947年まで作られた。国鉄向けだけで381両、その他に民間にも少数が売られた。
このC11のうちでも最初の番号の着いたC111は1973年に釧路港近くの釧路開発埠頭という引き込み線にいた。
もともとは滋賀県の江若鉄道で『ひえい』という愛称がつけられていたが、その後、北海道の雄別鉄道に譲られて石炭の運搬貨車の牽引に使われ、最後に釧路へと移ったものだ。
のちに作られたいわゆる戦時型が蒸気溜めや砂箱を角形にするなど、あちこちを簡素化したのとちがって、手間をかけて作られているのが特徴だ。
(1973年7月。釧路港で。撮影機材はPentax SP。レンズはAsahi-Takumar
35mm f3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)
この他のこの時代の歴史写真はこちらへ
7-3:1975年・あまりにも有名なスイスの登山SL
世界でももっとも有名で、もっとも距離あたりの単価が高いSLは、このスイス中部ベルン州のブリエンツ湖畔の町、ブリエンツからロートホルン(Rothorn)へ登っている登山鉄道だろう。
このSLは19世紀末に製造されたものだが、いまだに使われている。実際、1953年から1990年まではスイスで唯一のSL鉄道だった。
この写真を撮ったのは1975年だが、いまも多くの観光客を世界から集めている鉄道である。
路線延長は7.5kmしかない。最大傾斜は250‰という、普通の鉄道の10倍という、ほかにはありえない急勾配を登るために、SLは、写真に見られるように、はじめから傾けられている。ボイラーを水平に保つためである。
ロートホルンは標高2298メートル。山頂直下の駅まで、このアプト式登山鉄道(レールの中間に歯がある3番目のレールが敷かれていて、汽車側では、この歯に歯車をかみ合わせて登る仕組み。日本でも、昔は群馬県横川から長野県軽井沢間の電気機関車に使われていた)が登っている。軌道幅は80センチである。
また、観光客に排煙を浴びせないために、 いかにも観光然とした赤い客車を、緑色のSLが後ろから押して山を登っていく。
帰りは、この写真の手前に後進で走る。このため、SLの後部にヘッドライトがついている。
しかし、実用性がこれっぽちもない、あまりに観光客に媚びたというべき鉄道である。その意味では遊園地の子供の乗り物と紙一重のものだ。
いままでに、一体どれだけの観光客が、シャッターを押しただろう。よせばいいのに、1990年からは、観光客集めに効果的、というのでスイスの別の路線にもSLが走っている。
なお、近年は、ディーゼル機関車も使われている。
(1975年8月、スイスのフォルツハイム駅で。撮影機材はOlympus
OM1。レンズは Zuiko 50mm F1.8。フィルムはコダクロームKR64)
8-1:1927年に作られ、「丸窓」電車として日本で最後まで残った上田丸子電鉄の750Volt電車(長野県上田市)。
かつて上田丸子電鉄という電車の会社があった。長野県の上田の周辺でいくつかの、つながっていない路線を持つローカル私鉄で、地元の足として重宝されていた。
しかし日本の多くのローカル線と同じく、過疎と自家用車の普及から多くの路線が廃止され、いまは(事業を引き継いだ)上田電鉄が運行する上田から別所温泉までの別所線だけが残っている。別所線の全長は12km、その間に15駅がある。
写真の電車はモハ5250型。1927年に作られ、1928年から1986年まで同社の別所線で使われたもの。現在は上田市御獄堂の長野計器の工場の前に飾られている。
写真に見られるように、乗降扉の脇の戸袋の窓が楕円形になっているので、「丸窓電車」の愛称で親しまれていた。
丸窓は当時の流行、アール・デコの影響か、大正時代の木造電車には多かったが、この電車のように生きながらえたのは珍しく、ほかの丸窓の電車は第二次世界大戦後、早々と引退したり、普通の角窓に改造されてしまっていた。1980年代まで残っていたのは、これ以外は岐阜付近を走っていた美濃電気軌道(のちに名鉄に合併された)の路面電車であった「モ510」形電車(1926年製)ぐらいのものだ。
電車は前後両側に運転席があり、長さは14,719mm、全高3,785mm、全幅2,591mm。自重は 32,7t。定員は100名(うち座席40名)である。
なお、屋根についている集電装置は、製造当初は上の2-2のリスボンの市街電車のようなトロリーポールだった。しかし、1945年にパンタグラフに変えられた。
この電車の引退は1986年10月。別所線の電源が直流1500Vに昇圧されたが、この電車は直流750Vのものだったために、その前日に引退したものだ。
(2008年10月。長野県上田市郊外で。撮影機材はPanasonic
Digital DMC-FZ20。ASA80。レンズは45mm相当、F4.0、1/640s)
9-1:さて、この奇妙な乗り物はなんでしょう?これは後部?いやいや、長大な乗り物の反対側にも、おなじ”顔”がついているのです。ゴムタイヤを履いた、長大な乗り物。しかも、タイヤは前部に横向きにも着いている。
これが、どんな乗り物なのか、分かる人は少なかろう。
ワイパーがついた四角い窓は運転席である。ヘッドライトもある。赤い尾灯もある。運転席だけにしてはあまりに大きなオレンジ色の箱には、じつは駆動用のディーゼルエンジンが入っている。
そして、これと同じ箱は、はるか40m近くも遠い、反対側にも着いているのである。
そう、これは、札幌市が日本で初めてのタイヤで走る地下鉄を走らせる前に、いろいろなテストを地上で行った試験車なのだ。
レールの上を走る地下鉄は、日本でもすでにいくらでもあった。しかし、タイヤで走る地下鉄は、フランス・パリにこそあったが、”本邦初演”であった。なお、パリの地下鉄では1号線、4号線、6号線、11号線、14号線に使われ、このフランスの技術はメキシコにも輸出されて、メキシコシティの地下鉄にもゴムタイヤが使われている。
札幌市の 地下鉄は1971年末に 12km の区間(南北線の一部。北24条〜真駒内)で開通したのだが、その前、1967年に作られた「第4次試験車」がこの奇妙な乗り物であった。この第4次試験車は「すずかけ」と名付けられていた。第3次までの試験車の実績を踏まえての、2両連結の実車に近い大きさの最終試験車であった。
札苗試験場という、札幌駅の東にある試験場で約 900m の試験線路(と言ってもコンクリートの床)が作られて、そこで走らせて各種の試験をしたものだ。試験場は地下ではなく、地上に作られていた。それゆえ、地下では排気ガスを出すので使えないディーゼルエンジンが備えられていたのである。
バスやトラックよりはるかに重い鉄道車両をゴムタイヤで支える問題点や、パンクの対策など、試験することはいろいろあったにちがいない。 走行距離は6000kmに及んだ、と記録にある。タイヤは、自動車用のラジアルタイヤでは当時は先端的な技術を持っていたフランス・ミシュラン社製のものだった。
まるで無蓋貨車のような”荷台”は、乗客の重さに相当する錘など、いろいろな荷重を載せるための台でもあったろう。
なお、写真手前に横向きにつけられているタイヤは、走行するコンクリートの床の中央に「案内軌条」があり、それをこのタイヤではさんで走行するためのものだ。「中央案内軌条式鉄道」と言われる。
それにしても、あまりに無骨で殺風景な乗り物ではなかろうか。札幌市にとって、そして、東京以北でも初めてだった地下鉄をこれから通そうというときに、このような不器量な一つ目小僧ではなく、もう少し未来への意欲を感じさせるデザインがあってしかるべきではなかったか。
なお、この札幌の地下鉄は車体の幅が約3.1mもあってJRの車両に比べて大きく、それゆえトンネルの断面積も大きい。このため建設費用が割高になった。これが累積赤字のひとつの原因にもなっている。
ところで、札幌の地下鉄工事は、体育会の北大生にとっては、いいアルバイトになった。大学当局からは、公式には肉体労働は禁止されていたが、ボート部など、有り余る体力があって貧乏な学生は、深夜の工事に、よく参加していた。
(2009年6月、札幌市交通資料館で。撮影機材は
Ricoh Caplio R1。レンズは28mm相当、F3.3、1/11s。なお、同資料館は5〜9月の土日の昼間、それも10時〜16時という”お役人の片手間”時間しか開館していない)
9-2:北海道でしか通用しない路面電車用の「除雪」車
線路の幅は、もちろん、厳密に決まっている。
しかし、その線路のレールは、まっすぐなものだと思い込んでいないだろうか。
当然のことながら、高速で走る新幹線などは、厳密にまっすぐになっているはずだ。しかし、写真のようなローカル線では、見られるとおり、まっすぐではないこともあるのだ。しかし、脱線しては困るから、それなりに、線路の幅はきちんとしているはずだ。それゆえ、両側の線路は、同時に右へ行ったり左へ行ったり、「平行」しているのである。
写真は群馬県の高崎・下仁田間を走る上信(じょうしん)電鉄の下仁田(しもにた)駅で撮った。
上信電鉄株式会社は、鉄道のほか、路線バスも運行している地方の交通機関だ。だが、上州(群馬)と信濃(長野)を結ぶ「上信」と名が付いているのには悲しい理由がある。
上信電鉄は1895年に「上野鉄道」として設立され、1897年に高崎・下仁田間を開通させた。距離は34キロメートル、駅は20ある。
そして、もともとの計画では、下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現:小海線)の羽黒下駅まで延ばすことになっていた。そのため社名を「上信電気鉄道」に改称したのだった。
しかし鉄道の延長は実現しなかった。そのかわり、一時は長野県佐久市・中込方面へのバス路線を開設したが、これも廃止になってしまった。つまり名ばかりの「上信」なのである。
だが、この計画そのものは、私には無謀だったと思える。途中には右の写真の内山峠のような険しい地形がある。スイスの山岳鉄道ではあるまいに、ここに鉄道を通そうというのは、当時の技術としては到底、無理なことだったのではないだろうか。
写真は内山峠から見た荒船山。軍艦のような形をしたの艫岩(ともいわ)がそびえている。
地方の私鉄としては普通だが、現在、ここも経営は苦しい。このため車両も、首都圏の私鉄のお古を使っている。
多いのは西武所沢工場製の西武鉄道の200形電車だが、その他、西武鉄道のお古が多い。
そのかわり、だろうか、前後左右に派手な広告をまとった車両が多く、写真でも、みな、色がちがう。2008年からは、写真中央に見える松本零士原作『銀河鉄道999』のキャラクター「メーテル」・「鉄郎」をあしらったラッピング電車「銀河鉄道999号」の一般運行も始まった。沿線ののどかな景色には、ふさわしくないコマーシャリズムである。
(上の写真は 2010年2月、群馬県の高崎・下仁田間を走る上信電鉄の下仁田駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。レンズは432mm相当、F4.0、1/160s、ASA80。下の内山峠の写真は同じく2010年2月、撮影機材はRicoh
Caplio R1。レンズは28mm相当、F3.3、1/143s、ASA100。)
【番外編:「鉄道・路面電車」ではありませんが、動ける場所が決まっている、という意味では親戚筋の不器量な乗り物たち】
9-1:高所恐怖症の人は絶対に乗れない「地元の人にとってはかけがえのない足」。オーストリアの深い谷を渡る人力ケーブルカー。
インスブルックの西、スイスとの国境に近いところにある「私設の」ケーブルカー。
はるか先方に白っぽく見える、斜面の上にある家に行くための、かけがえのない交通手段だ。もし、このケーブルカーがなければ、文字通りの千尋の谷を下って、また登らなければならない。
それにしても、高所恐怖症の人は絶対に乗ることができないだろうし、人力で駆動するために、これだけの距離を移動するには、かなりの体力も必要だ。もちろん、時間もかかる。
遊園地の乗り物は別にして、乗り物とは、便利さと引き替えに大なり小なり命を託すものなのだが、それにしても、この乗り物ほど、命を託していることが実感できる乗り物も少ないだろう。
あいにくと所有者も利用者も近くにいなかったので聞くことはできなかったのが残念だが、そもそも、対岸の山の上に住んでいた人が、後年、不便に耐えかねてこのケーブルカーを作ったのだろうか。それとも、ケーブルカーを作ることを前提にして、対岸に住むことにしたのだろうか。
いずれにせよ、気安く「下界に」下りてくるわけにはいくまい。仙人のような生活にちがいない。
「私用」にしては、やや大きめの「車体」だが、これは、もしかしたら自給自足のために必要な乳牛を運ぶための大きさかもしれない。対岸の家のまわりには牧草地が広がっている。
(1991年8月、スイス国境に近いオーストリアの山中で。撮影機材はOlympus OM-4Ti。レンズはCosina
AF Zoom 28-70mm。フィルムはコダクロームKR)
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